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2012年9月16日
『タラントのたとえ』
(新約聖書 マタイの福音書 25章12〜23節)
   この世は、何ができるかという能力で人の価値を決めます。しかし神は、何ができるかにはまったく目を留めず、あなたという存在に価値があり、あなたは大切な人間だと言っておられます。

   神の価値観とこの世の価値観は真っ向から対立しているので、この世の価値観(肉の価値観)で神の言葉を読み取ろうとすると、正反対の意味にとらえてしまう危険性があります。このことに気をつけて、タラントのたとえから神の教えを正しく理解しましょう。


『天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一 タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一夕ラント預かった者は、出て行くと、地を堀って、その主人の金を隠した。

さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、 五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の事びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私はニタラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』』(新約聖書 マタイの福音書 25:14〜23)



   主人がしもべを呼ぶとは、神の呼びかけに応じて人が神のもとに来ること、すなわち救いをあらわします。

『わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:44)

   私たちは自分の努力や行いの結果救いを手に入れたのではなく、神が私たちを引き寄せてくださったので救われました。そして、神は救われた一人一人に、財産(タラント)を預けられました。神がクリスチャンに与えてくださる財産とは何でしょうか。

   今日、広く誤解されている「タラント」ということばの理解は、「能力・才能」といったものです。しかし、本来タラントとはギリシャ語で「升」を意味し、通貨の単位です。タラントが英語で才能を意味することばの語源となったために誤解されることが多いのですが、もともとタラントに才能という意味はないのです。

   能力や才能は、救われたときに神がくださったものではなく、それ以前から備わっていたものです。また、お金には物を買うという共通の性質がありますが、才能は一人一人異なるため共通の性質で量ることはできません。さらに、永遠なる神の財産とは永遠であるはずですが、人の才能や能力はその人の死と共に消え去ります。

   このように考えると、タラントとは、すべてのクリスチャンに与えられている共通の性質を持ったものであり、救いの恵みを受けたとき神からいただいたものであり、増やせるものであり、天国に持って行けるもの……それは、信仰以外にあり得ません。 タラントとは信仰を意味しているのです。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:8)

   信仰は神からの賜物(神からいただいたもの)だと、聖書は一貫して教えています。ではその信仰が一人一人の能力に応じ与えられたとは、どのように理解するべきでしょうか。

   信仰は御言葉を食べるために必要なものです。いくら聖書に詳しくても、信仰がなければ、救いを信じることができません。また、信仰は御言葉を聞くことからスタートします。つまり、信仰と御言葉は共に働くコインの表と裏の関係にあります。

   救われた時に神が一人一人にくださる信仰の量が違うとは、救われた時点でどれだけ御言葉が食べられるかは人によって異なる、ということです。砕かれてこの世の心遣いに価値を見失って救われた人は、救われた初めから御言葉を求めます。しかし、それほど砕かれずに救われた人は肉の思いが強く、あまり御言葉を食べようとはしません。いずれにしても救いは変わらず、信仰は成長するものですから、心配にはおよびません。

   ちょうど、たくさん食事を食べる人と、少しの量で満足する人がいるのと似ています。たくさん食べる人はたくさん消化する胃袋を持っているので、少しの食事量では満足できず、反対に少ししか食べない人に無理に食べさせると消化不良を起こして体調を崩してしまいます。

   御言葉をたくさん食べるには、食べる量に応じた信仰が必要なので、神は初めからたくさんの信仰を与えます。救いを受けたばかりの時にはあまり御言葉を必要とせず、むしろ御言葉を受け入れられず混乱してしまう人もいますが、信仰が成長するに従って多くの御言葉が食べられるようになります。重要なことは、与えられた信仰に応じて御言葉を実行することにより、最初の量以上に大きくできるということです。

   なぜイエス様は信仰の成長をお金儲けにたとえたのでしょうか。それは、この世でお金を儲けるためには、不安や恐れに立ち向かい決断することが必要であるように、神への信頼を増し加えるためにも、恐れに打ち勝つことが必要だからです。

   同じたとえ話がルカ19:12〜27にあります。ここでは、通貨の単位はタラントではなくミナになっています。そしてたくさんの物を任せることを、町を支配する者となるとしています。

   物を持つとは安心を意味します。神への信頼が増せば、平安が増すということです。町を支配するとは、奴隷の立場から自由になったということです。私たちは、もとは罪の奴隷でしたが、救われて信仰を与えられた結果、奴隷ではなく支配する立場・自由を手に入れたのです。信仰を増し加えることで、私たちはさらなる平安、さらなる自由を得ることができるのです。

   ところで、もしもタラントを才能と理解してしまうと、どのような解釈になるでしょうか?自分の能力や才能を伸ばし、神のためにそれを使って、よくやったとほめてもらおうと理解することができるでしょう。そして、神のために才能を使えば、神の国でエライ地位につくことができ、治める地位につくことが出来、天国で使える通貨を得る・・・という解釈まで生まれてくるのです。このような考え方は、この世の価値観(肉の価値観)というフィルターを通して御言葉を理解した結果、正反対の意味に理解してしまった代表的な例です。

   肉の欲望が神の国で出世することやお金を得ることを目指させて、それがこの世で頑張る動機となります。これでは、クリスチャン社会が競争社会と全く同じになってしまいます。もし、能力や才能を伸ばすことが神の財産だとすると、身体等にハンディがあって増やせる量が最初から限られている人もいて不平等です。しかし、信仰を使うことに関してはどのような人でも平等で、才能や能力とは全く無関係です。

   神のために自分の才能を使おうという生き方は、神に自分の罪を差し出そうという生き方に、完全に逆行します。なぜならそれは、自分に何ができるかということを一生懸命積み上げて誇ろうとする生き方になり、神に全く近づかず、神への信頼が育たないからです。そのような生き方は、自分の行いを誇り、高ぶる生き方が身につくだけです。神に近づくとは砕かれることであり、砕かれるとは、私たちがしがみついている、この世の心遣い・富の惑わしというよろいがはぎ取られ、神様にギブアップする状態です。これが、「罪を取り除く」ということです。その結果、神への信頼が増し加わるのです。 神は、信仰を増やすことに目を向けなさいと教えているのです。


『ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを破から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者はJ持っているものまでも取り上げられるのです。 役に音たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。』(新約聖書 マタイの福音書 25:24〜30)


   最後に、神から信仰を頂いたにもかかわらず、信仰をまったく使わなかった者が登場します。これは、救われても教会に行かなくなる人のことです。そのような人に神は、信仰を使わなくてもいいから礼拝にだけは出なさい、御言葉を聞くと利息程度ではあっても信仰は成長するから、と教えているのです。

   ここでは、信仰を使わない人たちに共通しているポイントが「私は怖くなり」(25節)という言葉に現れています。つまり「恐れ」が強く働くと、信仰を使えなくなるのです。この世の価値観を基準にして御言葉を聞くことで自分はダメだと思い、怖くなって、次第に信仰を使わなくなるのです。ですから私たちは、恐れと真剣に立ち向かわなければなりません

   この社会は恐れによって支配されています。親は子どもをしかり、罰を与え、恐れさせることで相手を支配しようとしています。これは、子どもに恐れを植え付けて、恐れのフィルターを育てているようなもので、確かに一時的に従うかもしれませんが、子どもは神の元に来なくなってしまいます。子どもに恐れをいだかせてはなりません。

   同じ方法で、この社会は、人が人を恐れさせるという生き方をしているため、常に私たちは何かにおびえています。その価値観のまま神と向き合ってしまうと、せっかく信仰をいただいたのに、神から罰を受けたらどうしようかと恐れてしまい、信仰を使わないのです。

   聖書では、イエス様の十字架の話がくり返し語られています。それは恐れを閉め出すためです。イエス様は、あなたを愛するため、あなたを愛し、あなたの罪の罰を代わりに受けるために、この世に来られました。あなたを罰するために来られたのではありません。

   「恐れるな」とは、聖書で一番多いメッセージです。神は、「罪の罰は私が背負うから、私を信頼してあなたの心を開きなさい、教会から足を遠のけてはならない、十字架の愛を忘れてはならない、私はあなたを愛している」と、くり返し語っておられるのです。

   恐れによって信仰を使わなかった者は、その後どうなったでしょうか。イエス様を否定したわけではないので、神の国には入れます。ただ、「泣いて歯ぎしりをする」、つまり、非常に後悔したのです。タラントのたとえとミナのたとえを読み比べるとよくわかりますが、神の国に入れない者とはイエスを王と認めなかった者であり、ミナを地に埋めた者の救いが取り消されたのではないことがわかります。

   せっかく与えられた信仰を使わなければ、私たちは神の国で後悔することになります。人生はこの世でほめられるためにあるのではなく、神への信頼を増し加えるためにあるのです。この世で賞賛を受けることが人生の目標ならば、あなたの敵はあなたを悪く言う人、ほめない人になります。しかし神を信頼することが目標ならば、敵は人ではありません。私たちの中にある恐れ、ウソの情報を流す間違った価値観こそが戦うべき敵なのです。

   肉の価値観は、私たちの中に恐れを生み、タラントを地に埋めて信仰を使わないようにさせます。しかし、信仰を用いた者は平安・自由を得ることができます。地に埋めていたタラントを出してきて、救いに立ち返り、神があなたを愛していることを確認して、恐れと戦い、信仰を用いて平安と自由を得るようにと、神は励ましておられるのです。