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2012年8月19日
『本当の敵は誰か パートU』

悪魔のこの世界での実体は、肉の価値観のほかに、もう一つあります。それは、「恐れ」です。肉の価値観は、人の知性に働き、御言葉をふさごうとします。それに対して「恐れ」は、人の感情に働き、御言葉をふさごうとするのです。では、「恐れ」も、悪魔の実体であることを見ていきましょう。


悪魔のしわざによって、人は一生涯死の恐怖の奴隷となりました。

『一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:15)

そのため、死を恐れ、そこから逃れようと見えるものにしがみついてしまいます。それは、言い換えれば、心が神に向けられなくなり、御言葉がふさがれたということです。このように、悪魔のしわざによって持ち込まれた死が、人の心を神に向けさせないよう、感情を恐れで支配し、人の知性を肉の価値観で支配しています。


私たちはどうしても、悪魔や悪霊との戦いというと、直接、悪魔や悪霊と戦うことを想像してしまいます。何か人格的な存在を想像し、私たちを直接攻撃するようなイメージを持ってしまいます。しかし、そうではありません。私たちは人格的な存在と直接対決するのではなく、あくまでも、この世界での実体と戦うのです。聖書は、恐れが悪魔の実体の一つであることを、次のように説明しています。


『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 5:8〜9)


ここに悪魔のことを、「ほえたける獅子」と表現しています。注目すべきは、「ほえたける」という表現です。「噛みつく」とは言っていません。獣はなぜほえるのでしょうか。それは、相手を威嚇するためです。「恐れ」させるためです。つまり、悪魔は、人に恐れを抱かせ、人を惑わすのであって、直接手出しはできません。キリストの十字架によって、悪魔はもう直接手出しできません。だから、ほえることで人を恐れさせ、心を食い尽くすのです。逆に、直接手出しできないからこそ、人は恐れに立ち向かえます。だから、聖書は「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」と教えています。


では、悪魔はどのように恐れさせてくるのでしょう。3つのパターンを見てみましょう。

1.人を恐れさせる

恐れを抱くと、人の心は、そこから逃れようとします。例えば、子どもは親を恐れると、親の顔色を伺うようになり、親の怒りから逃れようとします。部下は上司を恐れると、上司の顔色を伺うようになり、上司の怒りから逃れようとします。意識する、しないにかかわらず、恐れを抱かせる相手に心は支配されてしまうのです。つまり、人の感情に恐れを抱かせれば、人の心を支配できるのです。ですから、聖書はこう教えています。

『人を恐れるとわなにかかる。しかし【主】に信頼する者は守られる。』(旧約聖書 箴言 29:25)


2.将来を恐れさせる

私たちは、明日のことを心配し、思い煩います。日本人は、将来に備えて蓄えようとする国民性がありますが、それは、裏を返せば、将来を恐れていると言えます。将来を恐れると、人は神に心を向けられなくなってしまいます。ですから、神はこう言われます。

『だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』(新約聖書 マタイの福音書 6:34)


3.神を恐れさせる

私たちは、小さい頃から、恐怖心によって、良い者にさせようという教育を受けてきました。悪いことをすれば体罰を受けたこともあったでしょう。何か怖い存在を見せられ、嘘をつけば舌を抜かれるとか、恐れによって、行いをコントロールされたこともあったでしょう。私たちは、そうした教育を受けてきていますから、どうしても、権威に対して怖いというイメージを持ってしまいます。神に対して恐ろしいイメージを持つと、どうすれば神に愛されるだろうか、という生き方をするようになり、本当の自分の姿を隠すようになります。結果、神からの賜物である信仰を使わなくなります。


イエス様はタラントのたとえでこう言われました。

『ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』(新約聖書 マタイの福音書 25:24,25)


神は、人にタラントを預けられました。タラントとは、「信仰」のことを指します。神は、人に預けた信仰を、最後に精算されます。その信仰を使って、どれだけ神への信頼を増し加えたかを確認されます。その場面での出来事を記したのが、この御言葉です。その中で、この人は勝手に神を恐ろしい方だと思い、その結果、怖くなって預かった「信仰」を地の中に隠したとあります。信仰を使わなければ、神には近づけません。つまり、肉の価値観が神に対して勝手に、「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方」だと恐れを抱かせました。それにより惑わされ、神には近づけなくなったのです。


このように、敵は、私たちの心に恐れを抱かせ、進むべき神への信頼という道を阻んできます。では、恐れが私たちにもたらされると、神への信頼が築けないということを見ておきましょう。次の御言葉を見てください。


『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:2)


この御言葉の前半部分に「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、」とあります。あなたは、この意味をどう理解するのでしょうか。多くの人は、「取り除き」という言葉の意味を、実を結ばない者は、神から罰を受けるといった意味に理解します。中には、救いが取り消されると理解する人もいます。なぜ、そのように理解するのでしょうか。それは、肉の価値観が意味を勝手に補完するからです。人は、補完された意味から、神に対する恐れを抱くようになり、神に近づけなくなります。こうして、私たちは、神に近づく道を惑わされてしまうのです。


肉の価値観が支配するこの世では、確かに実を結ばない者は、それ相当の罰を受けます。そうした体験は、幼い頃から親に叱られることで身につけてきました。ですから、私たちの心に掛かった肉の価値観の眼鏡は、実を結ばない=罰を受けるという意味に補完します。神の期待に応えられずに実を結ばなければ、罰を受けても仕方ないと思わせてきます。それが、「取り除き」という言葉を、罰を受けるとか、救いが取り消されるとかいった意味に勝手に補完してしまう理由です。


するとどうなるでしょう。目指すべき目標は、罰を受けないように、実をならす生き方になります。その実とは、「行い」を意味すると思い、良い行いを目指すようになります。ですから、神にこう祈ります。

『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(新約聖書 ルカの福音書 18:11,12)

自分の行いを誇り、神に認められ、ほめられようとします。この生き方は、完全に惑わされてしまっています。


私たちが目指すべきは、すでに述べてきたように、神への信頼です。神を信頼できればできるだけ、人は自分を隠さずに、ありのままの自分をさらけ出せるようになります。ですから、神にこう祈ります。

『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(新約聖書 ルカの福音書 18:13)

神が義として認める祈りは、この祈りです。神は、この祈りを望んでおられます。イエス様は、そのことを教えるために、二人の人が、祈るために宮に上った話をされました。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人です。引用した先の御言葉は、そのとき彼が祈った言葉です。神が義と認めた祈りは、取税人の祈りでした。その祈りに対して、イエス様は、はっきりこう言われました。


『あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』(新約聖書 ルカの福音書 18:14)


このように、「取り除き」という言葉を、肉の価値観に従い、罰を受けるといった意味に勝手に補完してしまうと、神に対して自分を良く見せようとするパリサイ人のような生き方になってしまうのです。


これが惑わしの実際です。肉の価値観が、意味を勝手に補完し、目指すべき道を惑わし、さらには感情に恐れを抱かせ、神からの賜物を封じ込めてしまうのです。敵である肉の価値観と恐れは、このように互いが助け合い、御言葉をふさいでしまいます。ちなみに、

『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:2)

とは、どういう意味なのかを見ておきましょう。


この箇所の本来の意味はこうです。「実」とは、「平安の義の実」を指します。そして、「取り除き」とは、「平安の義の実」がなるように、それを邪魔する「罪」を取り除くことです。なぜなら、この話は、直前にイエス様が弟子の足の泥を洗われた出来事と重ねられているからです。イエスが洗われた弟子の足の泥は、罪を表していました。罪を洗い流すことで、イエスは平安な義の実を結ばせることを教えていました。そのことと重ねられています。


つまり、このぶどうの木のたとえは、「平安の義の実」がならない場合、神は何としても実がなるように罪を取り除かれるという話です。イエス様は、そのことを「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き」と言われました。罰を与えたり、救いを取り消したりといった意味は全くありません。


そもそも、農夫が実をならせるために取り除くのは、実をならせないよう邪魔する「いばら」です。つまり、御言葉をふさぐ「いばら」である、「この世の心づかい」と「富の惑わし」といった罪です。このことは、イエス様の有名な種蒔きのたとえから十分に知ることができます(マタイ13:3〜23)。ですから、この「取り除き」と訳されたギリシャ語には、「持ち上げる」とか「支える」という意味があります。すなわち、実がならない枝は、実がなるように支え、手入れするという意味です。取り除くものは、イエス様が弟子の足を洗われたことから分かるように、罪であり、決して私たち自身ではありません。


神は、私たちの心になる平安の義の実がなるよう、助けてくださいます。それが、私たちの心を支配する恐れを締め出すからです。ですから、私たちは敵の正体を知り、神への信頼を増し加えられるように進んでいきましょう。