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2012年8月12日
『本当の敵は誰か』

『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:11,12)


聖書は、悪魔の策略に対して戦うように教えています。私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、悪霊に対するものだということが書かれています。

では、悪魔(悪霊)とは、何者なのでしょう。聖書は、悪魔の起源や詳細については何も教えてはいません。近年、黙示録や旧約聖書の御言葉から、悪魔というのは、堕落した天使だとする説が支持されていますが、しかし、この考えは、イエス様が言われた言葉と矛盾します。


『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 8:44)


ここに、悪魔は「初めから」人殺しであり・・・とあります。イエス様は、悪魔は「途中から」人殺しになったとは言われませんでした。ということは、今日最も支持されている、神を助けるために造られた良い天使が、悪を選択し、堕落して、悪魔になったとする説は、イエス様の言葉と矛盾するのです。そもそも、神は善なる方ですから、悪を創造することができません。それでも、もし、神が悪を想像されたとなると、悪を滅ぼすために十字架に掛かられた神の愛は、一体何だったのかという話になってしまい、聖書全体の教えと矛盾してしまうのです。ですから、天使が堕落して悪魔になったとする考えは、非聖書的な発想です。


では、どうして悪魔は存在するのか、という話になると、これは分かりません。聖書が悪魔の起源や詳細を教えていない以上、私たちには知るすべがないからです。もし、私たちが知る必要があるならば、神は必ずそのことを教えてくださいます。しかし、神がそれを教えておられないということは、私たちは知る必要がないということです。神は、私たちが知る必要のあることについては、聖書を通して、明確に教えておられます。私たちが目を留め、気にする必要のあることは、イエス・キリストの十字架です。そして、悪魔については、その起源や詳細は伏せ、この地上での実体だけを教え、それと戦うように言われました。


では、悪魔の実体とは何でしょう。それを知るためには、神の実体とは何かを考えてみればよく分かります。聖書は、一番大事な戒めは、「神を愛すること」だと教えています。しかし、神は目に見えません。目に見えない神を、どうやって愛することができるのでしょうか。聖書は、神を言葉だと教えています。神を愛するとは、神の言葉を信頼し、従うことだと教えています。その御言葉は、人に対してすることが神に対してすることだとも教えています。このように、この地上での神の実体というのは、神の言葉を指します。


同様に、悪魔もこの地上での実体があります。それを知るには、悪魔の目的を知ることです。悪魔の目的は、人の心が神に向かないようにすることです。悪魔がエバにしたことは何でしょう(創世記2:15〜3:6)。それは、神が言われた言葉をふさぐよう、嘘の情報を吹き込むことでした。では、悪魔がイエス様にしたことは何でしょう(マタイ4:1〜11)。御言葉の誤った解釈や、この世の栄華を見せて、神の御心をふさごうとしたことでした。すなわち、悪魔の目的は、神の御心である、神の言葉をふさぐことにあります。


イエス様は、神の言葉をふさぐ実体について、種蒔きのたとえの中でこう説明されました。

『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)


イエス様は、この世の心づかいと富の惑わしが御言葉をふさぐと言われたのです。この世の心づかいと富の惑わしには、共通の価値観があります。それは、うわべに価値があるとする「肉の価値観」です。この世の心づかいは、いつも人からよく思われるために、見えるところを良くしようと必死にさせます。富の惑わしは、少しでも価値があると思えるものを手に入れさせようとします。どちらも、見えるものに価値があるとする価値観です。


イエス様は、あるとき、ペテロに「下がれ、サタン」と言われたことがありました。

『その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』(新約聖書 マタイの福音書 6:21〜23)


ペテロは、サタンなのでしょうか。いいえ、イエス様の愛する弟子です。しかし、イエス様は、「下がれ。サタン」と言われました。では、何がサタンなのでしょう。それは、彼のしたこの世の心づかいです。ペテロは、民衆からよく思われるために、イエス様をいさめました。イエス様は、神の言葉をふさぐこの世の心づかいに対して、サタンと言われたのです。この世の心づかいは、人からよく思われようとするために、このように神の御心、神の言葉をふさいでしまいます。

イエス様は、この世の心づかいと富の惑わしに対して、決して屈することをなさいませんでした。ここに、私たちの戦うべき敵の正体を知ることができます。私たちの戦うべき敵は、悪魔の実体である肉の価値観です。


パウロは、肉の価値観のことをこう記しました。

『というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:14〜16)


パウロは、見えるものに価値を置く、この世の心づかいと富の惑わしという価値観、この肉の価値観のことを「人間的な標準」と言いました。こうした価値観を捨てていくことが、神のために生きることだと言いました。私たちの戦うべき敵の正体は、肉の価値観なのです。