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2012年8月5日
『神への信頼を目指す』

人が求めているものは、『安心』、『幸せ』、『満足』・・・一言で『平安』と言えます。人という字を見れば、分かりますが、人は何かに支えられないと生きられない存在です。支えられることで、私たちは平安を手にします。この平安を、私たちは欲しています。ところが、何によって支えられるかは、とても重大な問題です。


人を支えるものは、この世界には二種類しかありません。それは、見えるものか神のどちらかです。見えるものというのは、富と人です。お金を持っていればなぜか安心できるし、人からよく思われれば、ことのほか安心できます。ところが、これらのものには、副作用があります。安心を手にしたつもりが、かえって、苦しい目にあってしまうのです。もちろん、見えるものを手に入れた瞬間は安心するのですが、手に入れると同時に、今度は、それを失うのではないかという恐れと不安に襲われます。そして、その恐れや不安を消そうと、もっと頑張って、見えるものを確保しなければならないという思いにつきまとわれます。見える安心は、簡単には手に入りません。ですから、見えるものに支えられて得る安心は、頑張らなければ手に入らないという代償もついてまわるのです。


しかし、神に支えられることには、払わなければならない代償も、副作用もありません。なぜなら、神は、私たちが頑張らなくても、初めから私たちのことを愛しておられるからです。ですから、頑張って神に愛されようとする必要はありません。神は、私たちを愛するために造られました。それなのに、私たちが神に、愛してください、と言って、頑張る必要はないのです。しかし、多くのクリスチャンは、神に愛されるために何をすればいいか、と思って生きています。これでは、神に支えられることで得られる平安の意味が理解できません。イエス様はこう言われました。

『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:27)

神が私たちに与えてくださる平安というのは、神を信頼できることからくる平安です。この平安は、見えるものによらないので、失うことも減ることもなく、誰も奪うことができません。ですから、神に支えられることには、全く副作用がないのです。


では、神を信頼するには、どうすればいいのでしょうか。三つのことを見てみましょう。


1.うしろを見ない

神を信頼する生き方に、自分の歩んできた過去は関係ありません。あるのは前だけです。神は、その人がどのような環境に生まれたか、どのような罪を犯してきたか、過去を見ていません。人は、人の過去を見て、交わろうとしますが、神は、一切そのような見方はされません。そのことを示すために、イエス様は、この地上で、取税人や娼婦、誰も交わらない罪人と食事をされました。神への信頼を築く生き方は、うしろを見ない生き方です。ですから、うしろを見る思いが来たら、神はうしろを見ないということを何度も思い起こすのです。


『兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:13,14)


2.ダメな者から良き者を目指すのではない

人は自分をダメな者だと思えば、良く思われようとして生きます。その生き方は、神に愛されるために、罪を隠し、災いを恐れて、律法的な生き方をする、神を信頼する生き方とは、全く逆行するものです。私たちは、ダメな者ではありません。良い者として神に造られ、ただその良い者の姿に罪という汚れがついてしまっただけです。ですから、私たちは、良い者になろうとする必要はないのです。クリスチャンの生き方というのは、いかに罪のドロを落とし、その良き姿に気づけるかという生き方です。神への信頼は、罪を神に差し出し、取り除かれる中で育まれます。

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:18)


3.試練を神への信頼を養うチャンスにする

残念ながら、人は試練を通してでなければ、神を信頼できるようにならないのが現実です。物事が順調にいっているときというのは、見えるものに支えられることで、安心を手にしてしまいますが、人はそれに気づきません。しかし、試練にぶつかったとき、見えるもので安心を手にしてきた自分の姿を知るのです。ですから、そのときこそ、神に支えられることで平安を手にする生き方に移行するチャンスです。試練を通して、人は神をどこまで信頼できるか試されます。神を信頼できるなら、私たちは、あきらめずに脱出の道を探します。その道が自分の思いと異なるならば、神を信頼し、神の導かれる方に舵を切ります。自分の思いをゆだね、神を信頼することで平安を手にしようとします。そうした信仰を養う機会が、試練なのです。

『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:2,3)