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2012年7月29日
『祈りの変化』

怒り(罪)と戦うようになると、祈りにも変化が生じてきます。初めは、神に祈ることといえば、どうしても「何々が手に入りますように。」とか、「成功させてください」とか、「某大学に受かりますように」とかいったものが中心です。要は、自分の鎧を良くすることを求め、鎧を通して安心を得ようとする祈りが中心となります。しかし、祈りは、罪が取り除かれていくと変化していきます。罪が取り除かれることで、安心の材料が、鎧から神に変わっていくからです。すると、祈りは、キリストの思いに従うことを目指すようになっていきます。このように、祈りは、罪が取り除かれ、キリストにつながれた自分に気づくようになる回復に伴い、自分の欲するものを求める祈りから、御心を求める祈りへと変化していきます。では、その変化の様子を、詳しく見てみることにしましょう。


救われた頃は、誰でも自分の欲しいものを神に求めることが中心です。神との関係が回復しただけで、見えるものにしがみつく習慣がそのまま残っている以上、それしか祈れません。でも、それで構いません。イエスもこう言われています。

『求めなさい。そうすれば与えられます。』(新約聖書 マタイの福音書 7:7)

どのような願いにせよ、祈ることで、心を神に向けることに意味があります。なぜなら、神が目指す神と人との関係を築くには、兎にも角にも、まずは心を神に向けることが第一歩となるからです。だから、幼子の場合、自分の欲するものを祈ることしかできなくとも、それはそれで構いません。その中で、心を神に向け始めるからです。では、心を神に向けるようになると、その後どうなっていくのでしょうか。


祈っていくうちに、人は気づき始めます。見えるものにしがみつこうと鎧を求めても、祈りが聞かれないことに。そして学ぶのです。こうした祈りは、正しくないのではと。

『願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』(新約聖書 ヤコブ人への手紙 4:3)

こうして、見えるものに頼る心が、少しずつ砕かれ始めると、次第に祈りに変化が出てきます。自分の快楽のためではなく、生きていく上で必要なものや、助けが必要な人のために祈るように変わってくるのです。例えば、仕事で問題が起きたとき、問題が解決されるように祈ります。例えば、家族がバラバラで上手くいかないとき、家族が一つとなるように祈ります。例えば、救われていない家族がいれば、家族が救われるように祈ります。


では、仕事の問題が解決するように祈ったなら、神は問題を解決してくれるのでしょうか。それとも、問題解決に至る脱出の道を備えてくださるのでしょうか。家族が一つとなるように祈ったなら、神は家族を一つにしてくれるのでしょうか。それとも、一つになれるチャンスを下さるのでしょうか。家族が救われるように祈れば、神が救ってくださるのでしょうか。それとも、家族が救われるように、家族に福音を語れるチャンスを下さるのでしょうか。


言うまでもなく、神は、その願いが叶うよう脱出の道を備えるだけです。チャンスとなる道を備えるだけです。そのことから、人は、神は人にできることは人にさせることを学びます。だからそこから、あきらめないで、神を信頼していこうという思いが芽生え始めます。それに伴い、祈りは変化していきます。自分の思いを達成する祈りから、神を信頼しようとする祈りに変化していきます。この変化に伴い、神への信頼を邪魔する鎧は砕かれ始めます。では、その後はどうなっていくのでしょうか。


人は、神の用意された脱出の道を見つけます。神が下さったチャンスを見つけます。しかし、今度は、その道が選択できないという自分にぶち当たります。自分の思い描いていた道なら選択できるが、神の用意された道は、往々にして自分の思いと異なるからです。ですから、選択できません。選択するには、神にゆだねるしかありません。こうして、神にゆだねられるように祈ります。もっと神を信頼できるように祈ります。この祈りが、見える鎧から手を離させていき、人を本格的に砕いていきます。砕かれると、その道が選択できます。では、その後はどうなっていくのでしょうか。


選択して歩き始めると、今度は様々な試練にぶつかります。その試練が、祈りをさらに変化させます。祈って求めたことは、すでに聞かれたと「信じる」祈りに変わってくるのです。聞かれたと信じられなければ、とても試練に耐えられないからです。だから、必死に信じられるように祈ります。つまり、さらに神が信頼できるように祈ります。この祈りが、鎧をさらに砕き始めます。なぜなら、この祈りは、信じさせない不信仰との直接の戦いとなるからです。そして、人は信じられるようになったなら、喜びを手にします。たとえ約束のものが手に入らなくても、遙かにそれを見て喜ぶことができるようになります。実は、この喜びこそが、神が与えたかった答えです。そのことに気づくと、アブラハムのように告白するのです。


『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)


アブラハムは、神を信頼でき、神の約束が信じられることがもたらす喜びに気づきました。この喜びは、見えるもので手にする喜びより遙かに勝っていました。ですから、地上では旅人であり寄留者であることを告白しました。こうして、神を信頼できることの喜びを知ると、次第に、見える鎧には興味をなくしていきます。それよりも、キリストのからだの器官として、自分は一体何をすべきなのだろうかと考え始めます。ですから、神にこう祈るようになります。「キリストのからだとして造られた自分は、一体何をすべきなのでしょうか。」と。つまり、自分の思いではなく、御心が成るように本気で祈り始めます。そのことを通して、鎧はさらに砕かれ、友としての関係が築かれていきます。


このように、祈りは、自分が欲するものを求めることから始まり、御心に生きられるようにと変化していきます。神を利用しようとする関係から、神を愛そうとする関係を築くようになるのです。その間、鎧は砕かれ、神は人にできることは人にさせること、あきらめないこと、ゆだねることを学びます。これが、神の恵みによって罪が取り除かれ、鎧が砕かれていく中、祈りが変化する様です。回復に伴い、変化する祈りの様です。