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2012年7月15日
『怒りパートV(敵意が生まれる仕組み)』

「敵意」は、どのようにして生まれるのでしょうか。例えば、中国では、尖閣諸島は自分たちの領土だと教えています。その領土を、日本人が実効支配し、自分たちの国土を侵犯していると教えています。ですから、中国人は日本人に敵意を持ちます。では、考えてみてほしいのですが、もし中国で、尖閣諸島は日本の領土だと教えたなら、中国人は日本人に敵意を持つでしょうか。尖閣諸島の件では、敵意を持つことはありません。つまり敵意とは、様々な規定が作り出していることが分かります。


確かに、私たちは様々な規定を使って人の価値を判断し、その結果に基づいて敵意を感じています。規定を犯す人を「ダメな者」と判断するので、そこから敵意が生じています。例えば、子どもの点数が悪いと「ダメな者」と判断し、子どもに怒り(敵意)を感じます。これは、点数の良い者は偉いという暗黙の規則(社会通念)があるからです。つまり規定が敵意を生んでいます。聖書も、 『敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:15)と教えています。


もう少し正確に述べると、人は様々な規定からなる戒めを、人の価値を計る物差しにするから敵意を抱くのです。こうした人の価値を計る物差しを、私は「肉の眼鏡」と呼んでいますが、人はありとあらゆる規則、社会通念、何でも人の価値を計る肉の眼鏡にしてしまいます。ではどうして人は人の価値を肉の眼鏡で計るのでしょうか。どうして人の「うわべ」を肉の眼鏡で見て、人の価値を判断するのでしょうか。何がそのようなことをさせるのでしょうか。それは死です。


死とは、神との分離をいいます。神と人とが分離されると、人は自分が何者であるのかが分からなくなります。なぜなら、人は、キリストの器官として造られたからです。

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:27)


器官は、からだとつながって、初めてその機能を知ることができます。ですから、切り離されたなら、何者だか分からなくなってしまいます。分からなくなれば、人は自分が何者なのかを知ろうとします。ただ、知りたくとも、神との関係が断たれた中では、見える世界でそれを見いだすしかありませんでした。そこで、何者なのかを知るために、自分の存在価値を見えるものの中に求めました。そのためには、自分の価値を計る物差しを必要としました。ですから、人は様々な規定からなる戒めを、人の価値を計る物差しにしました。これが、肉の眼鏡が誕生した経緯です。つまり、死が、肉の眼鏡の原因です。このように、様々な規定からなる戒めを、人の価値を計る物差し(肉の眼鏡)にしてしまうのは、人が死を背負ったためです。


死を背負った者は、肉の眼鏡を使い、見えるものの中に自分の価値を見いだそうとします。それは、心を神に向けないことを意味します。神の言葉を信じないことを意味します。これを、「不信仰」といいます。つまり、この肉の眼鏡は、心を神に向けさせない「不信仰の眼鏡」です。この不信仰の眼鏡が、人の価値を「うわべ」で計り、「ダメな者」か「良い者」か判断します。その結果、「ダメな者」と判断すると自動的に腹が立ち、肉の行いの「敵意」が生じます。すなわち、肉の行い(表の罪)である「敵意」は、死がもたらした肉の眼鏡(不信仰)が生んでいます。


私たちが一般に罪として意識する表の罪のことを、聖書は「肉の行い」と呼んでいます。肉の行いは数多くありますが、その代表的なものを次のように教えています。


『肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:19〜21)


この肉の行いの中に、「敵意」も含まれています。先に見てきたように、つまり、肉の行いという表の罪の下には、死がもたらした不信仰という裏の罪に行き着くのです。死が、見えるものにしがみつく不信仰を生み、不信仰が、様々な規定からなる戒めの「律法」を人の価値を計る物差し(肉の眼鏡)にし、敵意という肉の行いを生みます。

『敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:15)


つまり、死のとげである不信仰という罪が、肉の眼鏡で計る律法を生み、肉の行いである表の罪を強要しています。聖書は、『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)と教えています。

ですからキリストは罪を取り除くために十字架で死を滅ぼされ、肉の眼鏡の律法を廃棄され、敵意を葬り去りました。それによって神と人、そして人と人とが和解できるようにされました。

『また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙第一 2:16)


この御言葉は、キリストの十字架で滅ぼしたものを「敵意」と言っています。一方、他の御言葉では、キリストの十字架で滅ぼしたとものを「死」と言っています。

『キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。』(新約聖書 テモテ人への手紙第二  1:10)


つまり、敵意という肉の行いは、死が原因であることを教えています。正確に言うなら、死が、人を一生涯死の恐怖の奴隷にし、見えるものをむさぼる肉の眼鏡を掛けさせ、互いに敵意を持つようにさせました。ですから御言葉は、キリストは十字架で死を滅ぼされたと言い、敵意を葬り去られたとも言っています。


このように、罪は、死がもたらしました。死が、不信仰を生じさせ、表の罪に至らせていました。ですから、表の罪は、不信仰という裏の罪が実らせた実で間違いないのです。つまり、罪を取り除くとは、不信仰である肉の眼鏡を外させることであり、それは、敵意を葬り去ることです。それゆえ、罪を取り除く神の福音は、死を滅ぼし、敵意は十字架によって葬り去ったと教えています。


私たちはこの肉の眼鏡を外せばいいだけです。そのために三つのことに取り組んでいきましょう。


1、本当は相手を愛している、ということを思いましょう。

人が人に敵意を持つのは、肉の眼鏡のせいです。相手のせいでも、自分が悪いからでもありません。ただ、肉の眼鏡によって、操られているだけなのです。ですから、人に敵意を感じてしまったとき、私は本当は相手のことを愛している、と思いましょう。


2、どうせ私はダメな人間だと思わないようにしましょう。

○○だからダメ、という発想は、聖書に全く根拠のない考えです。神は人を良き者として造られました。


3、愛されるためには努力が必要だという考えを捨てましょう。

神は何かをしたから、あなたを愛するのではなく、もうすでに良き者だから愛しているのです。そうでなければ、十字架に掛かられるはずがありません。