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2012年7月8日
『怒り パートU』

〜怒りの仕組みについて〜

奪われた自分の価値を見えるもので取り戻すことを、「怒り」と呼びます。どうして人は、自分の価値が奪われると、必死に自分の価値を取り戻そうとするのでしょうか。なぜ「ダメな者」と意識すると、必死に、「ダメな者」ではないと怒るのでしょうか。普段、私たちは当たり前のように怒りますが、怒りの仕組みを、次に考えてみたいと思います。


【人の仕組み】

怒りの仕組みを知るには、まず人の仕組みを知る必要があります。人は、神によって次のように造られました。

『神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』(旧約聖書 創世記 2:7)

すなわち人はちりから造られた「体」と、神のいのちの息から造られた「心」から出来ています。


人の体には、食物が必要です。ただし、私たちが口にできる食物は限られています。あらかじめ、神が人の体にとって有益と定めた物しか食べられません。もしも、それ以外を口にしたなら大変です。体は、摂取した量に応じて、大変な「つらさ」を訴え、そして、元どおりに治そうと、自然治癒力を働かせます。それは、食べた物を吐き出す行為であったり、下痢であったりします。こうして、体は本来の姿を取り戻そうとします。


同様に、人の心にも、食物が必要です。その食物とは、「言葉」です。ただし、体が食べられる食物が限られているように、心が食べられる言葉も限られています。あらかじめ、神が人の心にとって有益と定めた言葉しか食べられません。もしも、それ以外を口にしたなら体同様、心も「つらさ」を訴え、自然治癒力が働き、自己修復しようとします。つまり、「つらさ」を感じる言葉を吐き出そうとします。こうして、心は本来の姿を取り戻そうとするのです。


【人が食べられない言葉、食べられる言葉】

では、心は、どのような言葉が食べられないのでしょうか。つまり、どんな言葉を食べると「つらさ」を感じるのでしょうか。それは、言うまでもなく自分の価値が否定される言葉に対してです。そうした言葉は、相手の口からだけではなく、相手の態度からも発信されます。人は、そこから自分の価値を知ろうとします。自分の価値が否定されたと思えば、「ダメな者」と思い「つらさ」を覚え、途端に自分の価値を取り戻そうという反応に出ます。これが、怒りの動力源です。では、なぜ「ダメな者」と価値が否定されると、強烈にそれを取り戻そうとするのでしょうか。


それは、人が「良き者」として造られているからです。

『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。』(旧約聖書 創世記 1:31)

良き者として造られた以上、「ダメな者」という言葉を口にしたらつらくなり、それを吐き出し、本来の価値を取り戻そうとするのは当然です。「ダメな者」と意識させる言葉は、あらかじめ神が定めた心の食物ではないからです。神が食べるようにと用意されたのは、「神の言葉」です。「神の言葉」は、「良き者」を意識させます。どれだけ人が神に愛され、素晴らしい者かを意識させるのです。私たちはその神の言葉を、聖書を通して、また、人の口を通して食べることができます。ですから、イエス様は言われました。

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』(新約聖書 マタイの福音書 4:4)

神の言葉が、私たちの心を、神を愛する心へと育てていくのです。


【自己修復機能は正常、では何が問題?】

整理してみましょう。人は、心と体から出来ています。心は、体に食物が必要なように、言葉という食物が必要です。ただし、食べられる言葉は、良き者であることを確認する言葉だけです。なぜなら、神は人を良き者として造られたからです。ですから、良き者であることを否定する言葉を食べると、体が間違った物を食べるとつらくなるのと同様に、心もつらくなります。心に傷を負ってしまうのです。そして、つらくなると、自己修復機能が働き、傷ついた自分の価値を治そうとします。それが、見えるもので、自分の価値を取り戻そうとする怒りにつながるのです。


こうした仕組みから分かることは、つらさを感じるまでは正常な反応だということです。自分の価値が傷つけられたから、それを治そうとするのは問題のない反応です。問題なのは、その手段です。傷ついた自分の価値を治すのに、見えるものに頼るのではなく、神に頼りいやしてもらうなら、それは怒りではなく悔い改めになります。赦しの恵みに預かるときとなります。ですから、つらさを感じることは、本来は恵みに預かるチャンスなのです。ところが、そのチャンスを不信仰が邪魔をしてきます。私たちの心にある自己修復機能を逆手に取り、心を神に向けさせない怒りにしてしまうのです。傷ついた自分の価値を治すのに、神ではなく見えるものに頼らせ、傷ついた自分の価値をいやそうとさせます。そうして、怒りは誕生するのです。

【なぜ見えるもので価値を取り返そうとするの?】

では、自己修復しようとする際、どうして見えるものに頼ってしまうのでしょうか。そこに至る道筋を追ってみましょう。その道筋は、私たちが、つらさを覚える言葉を食べてしまったところまでさかのぼります。


考えてみてほしいのですが、私たちは、どの言葉を食べるかは、自由に選ぶことができます。それはちょうど、この世にはたくさんの食べ物がありますが、どれを食べるかは自由に選べるのと同じです。この世界にも、言葉はたくさんありますが、どれを食べるかは、その人が選択することです。例えば、友だちがあなたのことを、「ダメな者」と言ったとしましょう。しかし、神はあなたのことを、「良き者」と言っておられます。ですから、どちらの言葉を食べるかは、あなたの選択となります。もし、あなたが心に「つらさ」を覚えたとすれば、あなたは神の言葉ではなく、友だちの言葉を選んで食べたことを意味します。それは、神の言葉よりも友だちの言葉の方が真実だと信じたということでもあります。


つまり、心が「つらさ」を覚える背景には、神の言葉よりも人の言葉を信じてしまった「不信仰」があるのです。人は、不信仰ゆえに間違ったものを食べます。食べると自分の価値が奪われ、心は傷つきつらくなります。当然、心はその傷をいやそうと働きます。しかし、人の言葉を真実だと信じた不信仰はそのまま生きているので、再び人の言葉で自分の価値を確認しようとしてしまいます。それが、見えるもので自分の価値を取り戻そうとしてしまう理由です。


さらにその不信仰には、もう一つの顔があります。人の価値は「うわべ」にあるとする肉の価値観です。この価値観があるゆえに、人は神の言葉ではなく人の言葉に自分の価値を重ねてしまいます。そして自分の価値を重ねてしまうゆえ、それを信じて食べる不信仰の罪が犯せてしまいます。つまり、罪である不信仰は、肉の価値観でもありますから、見えるもので価値を取り戻そうとする怒りを生んでしまうのです。これが怒りが生まれる背景であり、仕組みです。


〜怒りの始まりについて〜

では、この怒りの習慣は、一体どこから始まったのでしょうか。ここからは、人の潜在意識の中を覗き、怒りの始まりを探る作業になります。川でいうなら、川の源流のさらにその先の部分を探る作業です。人に甚大な被害を及ぼすことができる川も、その流れをさかのぼると、せせらぎに至り、さらには地面から湧き出る水に行き着きます。罪の湧き水は、不信仰であり、肉の価値観であり、怒りだということは分かりました。これからする作業は、それらの水が湧き出ている地面の中が、どうなっているのかを探ることです。怒りの始まりを探る作業です。


【人が最初に見えるもので価値を取り戻そうとしたのは】

人が最初に、自分をダメな者だと思い、価値を取り戻そうとしたのは、人に「死」が入り込んだときです。それは、創世記を読めば分かります。アダムとエバに死が入り込むまでは、彼らは裸であり、身を隠したりすることはありませんでした。見えるものに、自分の価値を見いだすということがなかったからです。ところが、死が入り込んで、いちじくの木の葉で身を覆い、神の前からは姿を隠し、自分は悪くないと神に言い訳までしました。見えるもので、自分の価値を見いだそうとしたのです。すなわち、怒りの始まりは、死が入り込み、人が死の恐怖を意識したときからだと分かります。


冷静に考えれば分かりますが、死に対して人は無力です。死という破壊的な力の前では、人はなすすべがありません。つまり、死の前では、人は無力で価値のない者と意識させられてしまうのです。その意識が、「恐怖」です。つまり、恐怖を意識するというのは、自分は価値のない者だと認めたことを意味することです。それは同時に、自分の価値が奪われることを意味します。まさに、死は、人の価値を奪い取ることで、怒りに必要な条件を整えてしまいます。では、私たちの価値を奪い去った死について詳しく見てみましょう。


【死は私たちに何をしたか】

死とは、神との関係が断たれることです。その結果、体は滅びる体となりました。これを、「肉体の死」といいます。魂も、神との結びつきを失いました。これを、「霊的な死」といいます。肉体の死は、本来死ぬべき体でなかったのが死ぬべき体とされたことなので、自分は価値のない「ダメな者」になったと思わせます。霊的な死は、神との関係が断たれた事実から、自分は愛される価値もない「ダメな者」になったと思わせます。このように、人に入り込んだ死は、人に対して、価値のない「ダメな者」を、強烈に意識させ、人の心からその価値を奪い去りました。つまり、人の心を傷つけたのです。これを、人の「弱さ」といいます。この弱さは、罪ではありません。問題は、この後です。


人は、価値が奪われて傷つくと、奪われた価値を取り戻そうと自己修復機能が自然と働き、自己の回復を目指します。ところが、人は、死によって神との関係が断ち切られていたので、神に頼ることができませんでした。頼れるものは、自分自身しかいませんでした。だから、自分で自分の価値を取り戻す方法を見つけるしかなかったのです。これが、罪の誕生です。この罪を、不信仰といいます。自分で自分の価値を取り戻すには、見えるものに自分の価値を重ねるしかありません。ですから、不信仰は、肉の価値観を生み出します。見えるものに価値を重ねたなら、それを何とかして手に入れようとします。ですから、肉の価値観は、怒りを生み出します。このように、死の恐怖から、見えるものに頼り、見るものに価値を見いだし、見えるものを手にすることで自分を守ろうとしたのです。これが、罪であり、怒りの始まりです。


【罪とは、不信仰・肉の価値観・怒り】

上記の図では、怒りの始まりを容易に理解するために、不信仰から肉の価値観が生まれ、そこから怒りが誕生したように描きました。しかし、実際は一つです。なぜなら、人が見えるものを頼ったとき(不信仰)には、同時に、見えるものに価値を見いだしているからです(肉の価値観)。しかも、見えるものを頼ることの目的は、価値を取り戻すことである以上、そこにはすでに怒りが働いているのです。ですから、この三つは同じと考えていいです。心を神に向けさせない罪とは、不信仰であり、肉の価値観であり、怒りなのです。「不信仰」は罪の名前であり、「肉の価値観」は罪の性格であり、「怒り」は罪の仕事です。


【怒りの始まりは死】

このように、怒りという罪は、死の恐怖から生まれました。死が人の価値を奪ったので、それを取り戻そうとすることが始まりでした。ただし、取り戻すにも、神との関係が断たれた中では、必然的に見えるものにしがみつくしかありませんでした。見えるもので自分の価値を取り戻し、平安を得るしかなかったのです。これが、怒りの始まりです。ですから、罪とは全て、死の恐怖がその原因です。人は、その恐怖から罪の奴隷になってしまいました。ですから、聖書は、キリストが来られた目的をこう教えています。

『一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:15)

こうして人の心は見えるものに向けられ、見えるもので自分の価値を見いだすようになっていきました。価値を見いだす先は、自らの行いであり、自らの力であり、自らの能力であり、自らの容貌であり、それにこの世界の物質です。そこに自分の価値を重ねていきました。そして自分の行いや、力や、能力や、容貌や、富などで自分を飾り、自分はダメな者ではないと叫びました。死の恐怖に対抗し、私は幸せだと叫びました。怒りの習慣は、こうして誕生したのです。