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2012年7月1日
『怒り パートT』
(新約聖書 エペソ人への手紙 4章25〜27節)
神が人を造られた目的は、人が神を愛するようになることです。神を愛するとは、心を神に向けることであり、神の言葉を信頼することであり、神と友のような関係を築くことであります。こうした神の目的を御心といいますが、神はまず、御心を実現するために、私たちを救いの恵みへと導き、神との関係を回復してくださいました。救われた私たちは、心を神に向けることができる環境が整えられ、いよいよ、神の御心にしたがって生きることができるようにされました。ですから、私たちが目指すのは、実際に心を神に向けていく生き方です。ヘブル書では、こうした生き方を、「神に近づく」と表現していました。心が神に近づけば近づくほど、平安が手に入ります。ですから、この生き方を、「安息を目指す」といいます。


一方、この生き方を妨害するものを罪といいます。私たちは、罪というと、○○をしたから罪、○○をしていないから罪でない、という見方をしてしまいますが、心を神に向けないことが罪です。罪の性質を表現したものを「不信仰」と呼び、罪の価値観を表したものを「肉の価値観」と呼びます。そして、罪の仕事をしているのが「怒り」です。


『ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:25〜27)


この御言葉は、怒りが表の罪を引き起こす裏の罪だと教えています。ここでいう罪とは、「偽りを捨て、真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」とあるように、嘘をついたり、傷つけたり、憎み合ったり、隣人に被害を及ぼす悪い行為「表の罪」を指しています。その表の罪に至らせるのが、「怒り」だと教えています。では、怒りはどのように表の罪を犯させるのでしょうか。


怒りを放置すると、怒りはどんどん大きくなっていき、人を憎み、赦せないという思いに至ります。そうなると、最悪人は人を殺す選択に至ります。つまり、怒りは、人の心に赦せないという敵意を持たせ、様々な表の罪を犯させるのです。でも本当に恐いのは、表の罪を犯してしまうことではありません。心が神に向けられなくなることです。なぜなら、人を赦せないと憎むと、心は四六時中、相手のことばかり考え、心が復讐に燃えるからです。そうなれば、どうやって心を神に向けられるというのでしょうか。ですから、早く怒りに気づいて、それを神に差し出す、これが私たちに求められていることです。では、怒りとは何なのでしょう。


【怒りとは何?】

人は、体の危険を感じたら、とっさに身を守ります。転びそうになったら、手をついて身を守ります。心も同様に、危険を感じると、とっさに心を守ります。そのときの反応を「怒り」と一般的に呼びます。しかし、これでは、罪としての怒りの姿がよく分かりません。私たちは、一体何を危険と感じ、その危険からどうやって心を守ろうとしているのでしょうか。それが具体的に分からないと、怒りという罪の姿が見えてきません。ですから、日常生活の中で起きる怒りを糸口に、怒りの実体を深く探ってみることにしましょう。


あなたは、今、勇気をもって自分の意見を述べたとします。しかし、その意見は聞き入れられず否定されてしまいました。すると、あなたは、どこがおかしいのかと怒りを覚えないでしょうか。あるいは、今、あなたは人に話しかけたとします。しかし、相手から無視されてしまいました。すると、あなたは、ふざけるなと怒りを覚えないでしょうか。あるいは、あなたは、今、相手の期待に応えようと頑張りました。しかし、相手から叱られました。すると、あなたは、こんなに頑張ったのにと怒りを覚えないでしょうか。


まずは、こうした人が怒る様子から、怒りについて考えてみましょう。人が怒りを表すこうした出来事には、ある共通点があります。どの場合も、相手の態度から、自分自身が否定されたと感じ取っていることです。人は、自分の意見が否定されれば、自分自身が否定された気がします。話をして無視されれば、やはり、自分自身が否定された気がします。頑張ったのに評価されなければ、やはり、自分自身が否定された気がします。つまり、怒りは、自分が否定されたと受け止めることで起きるのです。言い方を変えるなら、自分の価値を引き下げられ、「ダメな者」と意識させられるから怒るのです。これを、価値が奪われるといいます。


【怒る目的は】

では、価値が奪われると、どうして怒るのでしょうか。怒ることで、一体何をしようとしているのでしょうか。例えば、こういう場面を見たことはないでしょうか。子どもがお店で、何か欲しい物を見つけたとします。子どもは母親に、買ってとねだります。しかし、母親は「ダメ。」と言って無視します。子どもは、母親の態度から、自分が否定されたと受け止め、怒る手段に訴えます。子どもは怒って泣き叫びます。その怒りの目的は、欲しい物を手に入れるためです。ですから、泣き叫ぶ子に欲しい物を買い与えると、ご機嫌になります。


この事例から分かることは、まず子どもが怒った訳は、欲しかった物を「ダメ。」と拒否されたからです。そのことで子どもは、自分の価値が否定されたと受け止めました。では、なぜ自分が否定されたと受け止めるのでしょうか。それは、自分の価値を欲しい物に重ねたからです。だからこそ、それが否定されることは自分も否定されたと受け止めたのです。


自分が否定されたと思ったこの子どもは、怒って泣き叫びました。そして、欲しかった物を手に入れました。子どもは気づいていませんが、欲しかった物を手にすることで、否定された自分の価値を取り戻したのです。なぜなら、子どもは、欲しかった物に自分の価値を重ねていたからです。つまり、怒る目的は、奪われた自分の価値を取り戻すためです。


【怒りが起きる原因は】

怒りの様子が見えてくると、あることに気づきます。それは、怒りは見えるものに自分の価値を重ねるから起きるということに。人は自分の価値を、「お金」に重ねます。また、「行い」、「力」、「能力」、「容貌」に重ねます。こうした「うわべ」に重ねるから、「お金」を失うと怒ります。「行い」がほめられないと怒ります。思いどおりになれば「力」がないと怒ります。点数が悪いと「能力」がないと怒ります。「容貌」が悪いと言われると怒ります。


このように、人は自分の価値を重ねているものが、人の言葉や態度から少しでも否定されたと感じたら、自動的に自分の価値が奪われたと思って怒ります。価値が奪われたと感じたら、自分は「ダメな者」だと意識し、心は大変つらくなるのです。ですから、そこから抜け出そうと、奪われた自分の価値を取り戻す行動に出ます。しかし、そもそも自分の価値を見えるものに重ねているので、見えるもので取り戻そうとしてしまいます。それが、人の人に対する怒りです。では、そのことを別な例で見てみましょう。


例えば親は子どもが言うことを聞かないと、言うことを聞くまで怒鳴りつけます。この怒りを検証してみましょう。先に、思いどおりにならなければ、自分には「力」がないと怒ると述べましたが、この例はそれに当たります。人は自分の価値を自分の「力」に重ねます。ですから、思いどおりに周りが動けばご機嫌になり、思いどおりにならなければ、自分の価値が奪われたと感じるのです。つまり人は自分の力を計るとき、周りを思いどおりに動かせるかどうかで判断します。この場合の親は、思いどおりにならない子どもの様子から、自分の価値を重ねる「力」が否定されてしまったと思いました。そのことから自分の価値が奪われたと感じ、怒りが爆発しました。怒ることで子どもを思いどおりにし、奪われた自分の価値を取り戻そうとしているのです。


これは、大変よくある怒りのパターンです。怒る本人は、子どもが悪いから怒っていると思い込んでいますが、実際はそうではありません。本人が、自分のいのちの価値を、いのちのない、見える「力」に重ねるから起きています。怒る原因は全て、相手ではなく本人の中にあります。


【怒りを心の働きから見る】

では、今見てきた怒りを、心の働きに当てはめ整理してみましょう。人の心は、「知」「情」「意」の働きから成り立っていると言われます。「知」とは、何かを認識する知識であり、「情」とは、何かを感じる感情であり、「意」とは、何かを決定する意志であります。これに、人の怒りを当てはめるとこうなります。人の「知性」は、人の価値を「うわべ」に重ねて判断します。その結果、自分の価値が否定されたと判断し、自分を「ダメな者」だと認識したら、人の「感情」は「つらさ」を感じます。「つらさ」を感じたなら人の「意志」は、それを何とかしようとし、見えるものに頼る行動を取ります。その行動を「怒り」といいます。つまり、人は自分の価値が奪われることで危険を感じ、奪われた価値を取り戻すことで、自分を守ろうとします。これが、人の怒りです。



怒りとは、このように、奪われた自分の価値を見えるもので取り戻すことをいいます。ただし、怒る本人は、自分の価値が奪われたから取り戻すのだという意識はありません。意識できるのは、せいぜい相手に対する「敵意」でしょう。しかし、敵意が生まれる過程において、潜在意識の中ではこうしたやりとりが行われているのです。たとえ本人が意識できなくとも、怒りは、奪われた自分の価値を取り戻そうとする仕事をしています。そのことが分かると、普段私たちが怒りとして認識している、怒鳴ったり、カッカしたりすることは、自分の価値を取り戻すための一つの手段にすぎないことが分かります。なぜなら、価値を取り戻す手段は、まだまだたくさんあるからです。


【怒りの手段は様々】

例えば、自分はダメな者と周りに伝え、周りから「大丈夫」という励ましを得ることで自分の価値を取り戻すこともできます。例えば、何くそと頑張り、相手を見返すことで自分の価値を取り戻すこともできます。例えば、自分よりも弱い者を見つけ、弱い者をいじめることで、自分の価値を取り戻すこともできます。さらには、人の嫌がることをし、自分は特別な存在だと思わせることで取り戻すこともできます。全て、怒りの手段であり、まだまだたくさんあります。どの手段を選ぶかは、その人の育った環境や資質によって異なります。


ただ、最もポピュラーで、誰もがする最も簡単にできる手段が、怒りとして一般的に知られている、怒鳴ったり、カッカしたりすることです。要は、人をさばくという手段です。人をさばいて、相手を「ダメなやつだ。」と決めつけ、自分は偉い者だと思い込ませるのです。そうやって、奪われた自分の価値を取り戻すのです。ですから、自分の価値が奪われてつらくなると、人はこの手軽な手段をすぐに用いてしまうのです。怒鳴って、相手をさばくのです。


このように、人は怒ることで、自分の価値を取り戻そうとします。しかし、それでも上手く価値を取り戻せないときは、ダメな自分を見ないように快楽へ目を向け、快楽の中に自分の価値を見いだそうとします。あるいは、相手を赦せないと憎み、最悪相手を殺そうとします。あるいは、自分を責め、自殺へと向かいます。つまり、怒りは、変幻自在に様々な肉の思いに姿を変え、人を苦しみに追い込んでいくのです。当然、追い込んでいくことの目的は、心を神に向けさせないためです。見えるものに頼らせ、そこから平安を得させようとすることで、心を神から引き離すのが目的です。これが、怒りの意味であり、心を神に向けさせない罪の実体です。


【怒りを防ぐには】

人の心を神に向けさせない怒りは、人が見えるものに自分の価値を重ねるから起きます。ということは、怒りとは、人の価値は「うわべ」にあるとする肉の価値観でもあります。さらには、見えるものに自分の価値を重ねるから、神を信頼しようとはしません。ということは、怒りとは、神を信頼しようとはしない不信仰でもあります。つまり、怒りとは、肉の価値観であり、不信仰でもあります。 この怒りを防ぐには、兎にも角にも、人の価値を「うわべ」に重ねさせないようにするしかありません。ですから、聖書は人の価値を「うわべ」に重ねさせないように、人の価値はどんなに素晴らしいかを教えています。罪を防ぐために、繰り返し、その普遍的な価値について教えています。その中の一つが、イエス様が人々に語られたこの話です。


『だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。』(新約聖書 マタイの福音書 6:25)


私たちのいのちは、神のいのちの一部です。そのいのちの価値を、そもそも、いのちのないものに重ねることはできません。ところが、人はいのちのないものに自分のいのちの価値を重ねてしまいます。ですから、何を食べようか何を着ようかと思い煩ってしまいます。そして、見えるもので着飾ろうとします。しかし、どんなに着飾ったところで、花の一つほどにも着飾ってはいないのです。


『しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。』(新約聖書 マタイの福音書 6:29)


つまり、神は、私たちにはキリストの素晴らしいいのちがあり、良い者としての価値があるのに、どうして自分よりも価値のないものに自分の価値を重ねるのかと言われるのです。いのちのないお金に自分の価値を重ね、お金を失うと自分は生きる価値のない者と思ってしまいます。いのちのないテストの点数に自分の価値を重ね、点数が悪いと自分は生きる価値のない者と思ってしまいます。こうしたことは、実に馬鹿げたことだと言われるのです。このように、「怒り」は、人のいのちの価値を、いのちのないものに重ね、いのちのないもので取り戻そうとする行為なのです。