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2012年6月17日
『恐れるな』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:1〜9)
ヘブル書は、神の言葉を食べる生き方(安息を目指す)ことが書かれています。その最後の部分で、パウロは念を押して述べています。


『兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:1〜3)


神の言葉を食べる生き方というのは、互いに愛し合うことを追い求める生き方でもあります。牢につながれるというのは、当時、現実に牢につながれていた人々のことであり、また、罪の奴隷としてつながれている私たち自身のことでもあります。互いに、罪の病に冒されているのですから、人の罪を見てさばくのではなく、この人もまた罪の病に苦しんでいるのだと思いやりなさい、という意味です。

私たちが人をさばく(愛せない)のは、敵意を持つからです。敵意というのは、様々の規定からなる戒めの律法が生み出すものです。

『敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:15)

人はみな、規定によって人の価値を計っています。そうした見方をやめれば、敵意は消え去ります。ですから、イエス様は、規定で人の価値を計る物の見方を十字架で廃棄されました。私たちは、それを信仰で受け止めて、敵意と戦っていくのです。神の言葉を食べる生き方というのは、こうした敵意と戦っていくことでもあります。


『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:4)


安息を目指す生き方、すなわち神の言葉を食べる生き方というのは、キリストを目指して進むことだと12章にありました。私たちが、欲を快楽に使おうとするときというのは、心がキリストに向いていません。もともと、私たちに備えられた欲は、生命を維持するために神が備えてくださったものであり、悪いものではありません。しかし、それを、自分を安心させ、満足させるために使えば、心が神に向きません。ですから、問題なのです。神の言葉を食べる生き方というのは、欲との戦いだということが述べられています。


『金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」』(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:5)


金銭によって心の平安を得ようとする生き方は、心を神に向けない最も分かりやすい生き方です。神の言葉を食べ、心を神に向ける生き方というのは、金銭を愛する心との戦いでもあります。


私たちは、見えるものにしがみついてしまいますが、その原因は何でしょうか。それは、私たちに死の恐怖があるからです。ですから、神はこう言われます。「私は決してあなたを見捨てず、あなたを捨てない。」この神の約束の言葉を信じられるなら、私たちは、見えるものにしがみつこうとして、敵意を抱いたり、欲におぼれたり、金銭で満足しようとしたり、人にしがみついたり(この世の心づかい)しないのです。


しかし、私たちは、こうしたことが分かっていても、できないのです。ですから、パウロはこう言いました。

『そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」』(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:6)


私たちが苦しんでいるのは、死の恐怖ゆえです。死の恐怖は、そのまま「自分はダメだ」という意識を私たちにもたらします。その意識から人はみな、見えるものにしがみついています。そして、そこから、嫉妬したり、憎んだり、争ったり、様々な苦しみにあっています。


『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14〜15)


こうした見えるものにしがみつく生き方を変える方法は一つです。それは、自分はダメではない、大切だ、価値があるということに気づくことしかありません。神は、私たちが何か良いことをしたから、私たちを愛してくださったわけではありません。それは、十字架を見れば分かります。ただ一方的に、私たちの罪の罰を背負ってくださいました。私たちは、その十字架の愛に気づくとき、死の恐怖から解放されます。


『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)


このイエス・キリストの愛に気づくには、私たちが、自分の罪を神に言い表すほかありません。


『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)


罪を赦し、悪からきよめられるというのは、どういうことかというと、十字架の愛を見ることを言っています。私たちに肉体がある限り、死の恐怖はなくなりません。しかし、神の愛を見ることができるなら、死の恐怖があっても、それに支配されることがありません。聖書は、それを、悪からきよめられる、と教え、愛によって恐れが締め出されると教えています。ですから、私たちは、神の愛に気づき、心をそれに向けるのです。


『神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:7,8)


アブラハムをはじめとする、信仰の人たちのことを思い出しなさい。彼らは、安息を手に入れました。彼らを導いたキリストの愛はずっと変わっていません。


『さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 13:9)


見えるもので、平安を得る生き方ではなく、十字架の愛を確認することで強くなりなさいという意味です。それは、神の言葉を食べることで強くなれという意味です。神の言葉を食べると神が共におられることに気づくようになります。


旧約時代、エリシャという預言者がいました。彼は、神と親しい仲でしたので、神から何でも教えてもらい、敵の動向もお見通しでした。敵の王は、どんな手を打っても、敵にばれてしまうので、なぜそうなのか調べると、エリシャがいるからだということが分かりました。そのため、敵の王は、エリシャを包囲して、エリシャを殺せ、という命令を下しました。エリシャの若い従者は、敵が押し寄せてきたのを見て、慌ててエリシャに報告します。次の御言葉は、そのときの従者とエリシャとのやりとりが書かれています。


『そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言った。すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。そして、エリシャは祈って【主】に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」【主】がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。』(旧約聖書 列王記第二 6:14〜17)


従者は、恐れ惑っていましたが、エリシャが彼の為に祈り、彼の目が開かれると、主の使いが守っていることが見えました。そして、彼は、主が共におられることが分かりました。


私たちにも、同じように、主が共におられ、守ってくださっています。目には見えませんが、もし信仰で見ることができるなら、大勢の主の使いに守られていることが分かります。何も恐れることはありません。こうした御言葉を信じられると、私たちは神がくださる平安を手にすることができるのです。