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2012年6月10日
『いやされるために』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:12〜29)
12章の主題は、イエス・キリストを目指す競走をしていこうではないかということです。その目的がここに書かれています。それは、「いやされるため」です。


『ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:12,13)


神は、私たちの罪を病気だと言われます。死の恐怖から、見えるものにしがみついてしまう病気なのです。神は、その病気をいやすということを約束してくださっているのです。11節には、平安な義の実を結ぶための訓練という表現がありましたが、これは、平安な義の実といやされるということは、同じ意味で使われています。


では、いやされるためにはどうすればいいのでしょうか。


1、弱った手と衰えたひざをまっすぐにしなさい

私たちは、罪によって弱り衰えています。あなたがもし、自分はダメな者だという思いを持っているならば、それはまさに、罪に騙されて、弱り衰えている証拠です。私たちの罪は、取り除くことができる病気です。決して、私たちの本性ではありません。罪は、本来の姿に、後から付着したものですから、取り除くことができるのです。ですから、この御言葉は、希望があるということを伝えています。いやされる見込みがあるのだから、弱った手と衰えたひざをまっすぐにしなさい。平安な義の実を結ぶために、立ち上がりなさい、と教えているのです。


2、まっすぐな道を作りなさい

私たちは、イエス・キリストによっていやされる(安息を目指す)、という目標が分かりました。目標は分かっても、それにつながる道はどんな道なのでしょう。それは、ヘブル書が繰り返し教えているように、神の約束の言葉を食べ、それを信じられない不信仰に気づき、その不信仰を神に差し出し、赦していただくという道です。その中で、私たちは、神への信頼、つまり平安を手にします。これが、神が私たちに与えた、目標に到達するための唯一の道です。その道を進んでいくことを、まっすぐな道を作りなさい、と教えています。


しかし、人は、神に近づくためには、何か頑張らなければいけないと思っています。ですから、何をしたら神に喜ばれるだろうか、という行いの道を探します。何をすれば、神は私に報酬を下さるのだろうか、という道を必死に探します。しかし、そんな道を探しても、存在しません。目標に到達する道は一つだけです。


3、平和を追い求めなさい

『すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:14)


平和の反対は、敵対です。私たちの持つ敵意というものは、規定がもたらしたものです。私たちは死の恐怖によって、見えるものにしがみついています。そのしがみつく見えるものの良し悪しを判断するためには、基準が必要です。そのため私たちはさまざまな規定を作りました。男はこうあるべき、女はこうあるべき、親はこうあるべき、子はこうあるべき・・・・そして、その規定に当てはまれば、良い人で、そうでなければ、悪い人、嫌いな人という結果を導き出しています。規定によって、人は人を好きになったり、嫌いになったりし、敵意が抱きます。このように敵意は、規定がもたらしたものなのです。規定がなければ、人は人に敵意を抱きません。しかし私たちは自分自身が、敵意を生み出し、本当に相手を憎んでいると思い込んでいます。それは、大きな勘違いです。聖書ははっきり、敵意はさまざまの規定から成り立っている戒めの律法が生んでいることを教えています。


『ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:15〜16)


平和を追い求めるということは、私たちの中にある、敵意を廃棄するという意味です。それは、具体的には、規定によって見る見方をやめなさいということです。本来の私たちは、人を愛し、神を愛する存在ですが、罪の病(規定で物を見る見方)が、それを邪魔しているだけです。ですから、本来の姿に戻ることが、平和を追い求めることとも言えます。


4、聖められることを追い求めなさい

「聖い」という字は、御心が見えるようになることを指しています。行いが良くなる場合は、「清い」という字を用います。聖書が教える聖さは、御心が見えることによって、行いが良くなるというものです。神の御心は、神への信頼を増し加え、私たちが神と友のような関係を築くことにあります。これがどんなに素晴らしいものか見えることによって、私たちの行いも自然と変えられていきます。ですから、私たちは、御心が見えるようになるように、安息を目指して進んでいくのです。


続いて聖書は、私たちが、イエス・キリストによって罪の病がいやされる(安息を目指す)という目標に向かって歩んでいく中で、互いによく監督することを教えています。


『そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:15,16)


神の恵みから落ちるというのは、救いが取り消されるという意味ではありません。安息に入れない、つまり神への信頼を増し加える道から逸れてしまう、という意味です。そうならないよう、互いに道から迷い出ることのないよう励まし合いなさい、と聖書は教えています。聖書が教える「励まし」とは、同情ではありません。互いに、神への信頼を築くために、励まし合うことです。


また、聖書は、互いに、苦い根が出ないように、分派や間違った教えを広める者に注意しなさいと教えています。また、不品行な者や俗悪な者が出ないように、不道徳なことを放置しないように、注意しなさいとあります。そうすることによって、神への信頼を増し加える道から逸れないようにするのです。


さて、私たちが目指している安息という場所ですが、これは、かつてモーセが目指したような、見える場所でも、手で触れる場所でもありません。(18〜21節)私たちが目指している場所は、天の都エルサレムです。そこは、無数の御使いが集う場所であり、救いを受けた人々の集まるところです。つまり、十字架の血(赦しの恵みによる平安)が満ちたところです。(22〜24節)この御言葉の箇所は、大変難しいことが書かれているようですが、一言で言うと、私たちが、目指しているのは、素晴らしい場所だということです。そこに心の平安があり、癒しがあるということです。その場所は、永遠のいのちを手にし、神を信じた者(揺り動かされることのない者)だけが入れるところです。


『この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:27,28)


私たちは、揺り動かされることのない御国を受けた者です。たとえ、不信仰によって神の言葉を疑うことがあっても、イエス・キリストが神であることを否定することはできません。それは、揺り動かされることのない御国を受けている証拠です。ですから、何も心配せずに、罪の病が癒されるよう、平安な義の実を結ぶよう、目標を進もうではありませんか、と語られているのです。