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2012年5月13日
『信仰とはパートU』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:7〜16)
信仰は、神を知ることだけだと思っています。しかし、信仰は、さらなる働きがあります。私たちの抱える問題を全て解決することができます。信仰の働きについて、さらに見ていきましょう。


『信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:7)


信仰とは、まだ見ていない事実を確認することです。ノアは、まだ起きていない事柄(神の言葉)を信じて、箱舟を造ることを実行しました。そして、信仰による義を相続する者となりました、とあります。義という言葉には、二つの意味がありますが、一つは神の子とされる義です。これは、信仰A、つまり、救いの恵みに預かることをいいます。もう一つは、神に預けられた信仰を使って、神への信頼を増し加える生き方をする義です。こちらは、信仰Bを使って、神への信頼を相続する生き方です。ノアは、神の言葉を信じて実行に移すことにより、信仰による義を相続するものとなりました。ノアの信仰の姿勢から、信仰とは、ただまだ見ていないものを思い描くことではなくて、従うことを促すものだということが分かります。次の御言葉もそのことを教えています。


『信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:8)


自分の育った地を出て行くのは勇気のいることです。しかし、アブラハムは、自分がこの先どこにいくのかも分からないまま、神の言葉に従い、故郷を後にしました。信仰というのは、神の言葉に従わなければ、成立しません。信仰は、目に見えないものを確信させるものですが、神の言葉と権威に従う姿勢なく、ただ将来のことを思い描いたところで、それは、信仰とはいいません。世の中でも、きっといいことがあるから頑張りましょう、あきらめないで、といった励ましはよく耳にします。しかし、それは、信仰を使っているのではありません。神が与える信仰は、神への信頼(信頼するとは、実際に行動に移すこと)なくして成立しないものなのです。


『また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:18,19)


イスラエルの民が、安息(平安)に入れなかったのは、不信仰ためです。逆に言うなら、もし、信仰があったら、安息には入れていたということです。私たちは、聖書の言葉を読むときに、自分にできないと思うことがあると、聖書にはそう書いてあるけれど・・・と否定してしまいます。これが、不信仰です。聖書は、はじめからできないことが書かれています。それは、敢えて罪の病気に気づかせるために、そう書かれているのですから、素直に、不信仰を認め、悔い改めればいいのです。そうすることで、安息に入ることができます。


『信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:9,10)


アブラハムは、元々豊かな生活をしていました。ところが、神の言葉に従って出ていった先では、他国人のようにしてその地に住み、天幕生活をするという過酷なものでした。しかし、アブラハムは、その過酷な生活に耐えることができました。どうしてそのようなことができたのでしょう。それは、彼が堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。都とは、神への信頼です。堅い基礎は、イエス・キリストです。アブラハムは、神への信頼を築きたいと願っていたので、耐えることができました。これは、クリスチャンの生き方を表しています。第一コリントにも、そのような御言葉があります。


『与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:10,11)


私たちは、すでに、イエス・キリストという土台が据えられました。その上に、どういう建物を建てていくのか、それには注意が要ります。


『もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:12〜15)


若い頃は、誰でも、金を目指そうとします。しかし、自分の能力が分かってくると、銀でもいい、宝石でもいいと、ハードルを下げます。それも得られないとなると、木や草でもいい、いや、価値がないとされるわらのような生き方でもいい、となります。これは、まさに、この世の価値観を表しています。キリストという土台の上に、こうしたこの世の価値観の建物を建てるなら、それは全て焼かれてしまい、何も残りません。たとえ、金であっても、溶けてなくなってしまいます。ですから、この世の価値観でどのような生き方をしようとも、空しいのです。ただし、キリストの土台の上に、この世の価値観で建物を建てたとしても、土台だけは残り、天国には行けます。しかし、そのような生き方は、空しいものですから、私たちは信仰を使って神への信頼という家を築いていきましょう。


『信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:11,12)


信仰は、神は真実な方だと信じる働きをします。神は「Good God」です。神が、私たちに立てている計画は、幸せを与える計画です。私たちは、人生の中で、様々なつぶやき、文句を言ってしまいます。どうしてだと言ってしまいます。それは、神は真実な方だと、信じられていないからです。見えるところがどういう状況であろうとも、神は、全てを益とされる方です。


パウロは、新約聖書の手紙のほとんどを書いた人物です。彼の書いた手紙の多くが、その後、聖書としてまとめられました。彼は各地を伝道して歩き、大変多忙な生活を送っていました。そんな彼に、いつ手紙を書く時間があったのでしょう。それは、彼が投獄されたときです。パウロが投獄されたとき、人々は思ったはずです。なぜ、パウロのような人が捕まるのかと。なぜ、神は助けないのだろうかと。しかし、それには、神の深い計画がありました。もちろん、獄中に入れられたのは、人のしたことです。でも、神は、そのことを益とされ、獄中で手紙(聖書)を書くように導いたのです。


私たちは人生で問題にぶつかると、どうしてと考えてしまいます。しかし、神の目からすると、そこには意味があって、益とされるということは明らかです。私たちは、その問題が、どのように益とされるか知ることはできませんが、神は益とされるということを信頼することはできます。これが信仰です。


『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)


信仰は、私たちに喜びをもたらしてくれるものです。信仰というのは、神を見る働きをします。ですから、そこには喜びがあります。自分はこの地上で旅人だということを示してくれます。


『彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:14〜16)


信仰は、自分の帰るべき故郷はどこかということを教えてくれます。そして、そこに向かって生きることを教えてくれます。私たちは、死ぬまでにどれだけ富を得ることができるだろうか、という生き方をしてしまいます。しかし、その富がこの世の富であるなら、私たちの人生は全く空しいものです。私たちの築く真の富は、神への信頼です。その真の富を蓄えていくことが人生なのです。ヘブル書は、そのことを教えています。