ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2012年5月6日
『信仰とは』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1〜6)
神の言葉が信じられるようになることが、私たちの問題の解決ですが、この信じるというのは、神から賜った信仰の働きです。信仰には、二つの働きがあります。一つは、神がおられることを悟らせてくれる働き(信仰A)。一つは、神への信頼を育てる働きです(信仰B)。神は、この信仰に応答され、人の問題を解決されていきます。そのため、神は、あらかじめ私たちに信仰を預けられました。


今日、多くの人が携帯電話を使用していますが、携帯電話でメールをされるでしょうか。ネットにつなぎ、情報を集めたりするでしょうか。携帯電話には通話以外にも様々な機能がありますが、それらを使っていなければ、せっかくたくさんの機能が付いていても、フルに活用していることにはなりません。宝の持ち腐れと言われてしまいます。


私たちが神から賜った信仰も、多くの場合は使わずじまいになっています。信仰には、私たちの問題を解決するという素晴らしい働きがあるにもかかわらず、その機能が十分には使われていません。ただ、神がおられることを悟るだけの機能が使われているだけです。


『信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:3)


確かに、信仰の基本となる機能は、この御言葉にあるように神の存在を知る機能です。しかし、信仰にはさらなる機能があります。それは、神への信頼を育てる機能です。信頼は、神を愛することにつながり、神へのよりすぐれた捧げものとなります。そうした信仰の機能を、フルに活用した人たちの話が聖書には書かれています。


『信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:4)


ここに書かれている人物は、信仰の機能をフルに活用し、ささげ物をしたアベルです。アベルは信仰を使い、神を信頼する心を育て、その延長でささげ物をしました。神は、アベルの神へのそうした信仰を喜び、その見えるささげ物を受け取りました。それに対して、カインは信仰を使わず、自分がほめられたいという延長でささげ物をしました。ですから、神は目を留められませんでした。このように、信仰には、神への信頼を育てる機能があり、それが神の喜ばれる捧げものになることを、聖書は証ししています。さらに、この御言葉の続きに、信仰に生きたエノクの話が書かれています。


『信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:5)


エノクは、信仰によって神に喜ばれていたので、死を見ることなく移されたとあります。このエノクは、セツの家系から生まれ、彼の子孫からノアが誕生しました。この家系は、創世記に詳しく書かれています。それに出てくる人たちは、それぞれ何年生きたとしか書かれていません。その中、唯一エノクだけが、神とともに歩んだと書かれています。

『エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。』(旧約聖書 創世記 5:24)

セツの家系は、神とともに生きた家系であり、何年生きただけを記録として残せば十分であったことが伺えます。


このことから、エノクに代表される彼らの生き方は、信仰の機能をフルに活用した生き方であったことが分かります。信仰を使い、神への信頼を育てた人生でした。ですから、見えるものに支配されないで、神とともに歩みました。神は、この生き方を人に望んでおられます。そのことを示すために、エノクを代表し、エノクは死を見ることなく神に移されました。このように、信仰には、神への信頼を育てる機能があり、それが神の喜ばれる生き方になることを、聖書は証ししています。


ちなみに、この家系とは対照的に、創世記にはカインの家系も詳しく書かれています。こちらの家系に出てくる人は、何年生きたとかは書かれず、何をしたかが書かれています。それを見ると、家畜で成功を収めた者、音楽で成功を収めた者、青銅で成功を収めた者が書かれています。神とともに生きない人生は、このように見えるものにしがみつき、それを誇るしかないことを浮き彫りにしています。


このように、信仰には、神がおられることを悟らせてくれる働きだけではなく、神への信頼も育ててくれる働きがあることを、聖書は証ししています。特に、神への信頼は、神が喜ばれたエノクと同じ生き方に導きます。この信頼は、神に求める者には報いてくださるという確信でもあり、この確信が、御言葉を信じて食べることを意味しています。すなわち、信仰を使って神への信頼を育てることが、神に近づくことを意味し、神に喜ばれる生き方を意味し、人のあらゆる問題の解決を意味するのです。


『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:6)


私たちは、これほどまでに素晴らしい信仰を賜っていながら、それをフルに用いているでしょうか。患難に出会うと、すぐにつぶやき、あきらめてはいないでしょうか。神は、患難に出会ったとき、信仰を使ってほしいと待っておられます。この信仰は、私たちに、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させます。


『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1)


そんなに素晴らしい働きをする信仰を、私たちは使わないでしまい込んでいないでしょうか。イエス様は、そのようなことのないようにと、タラントのたとえを話されました。


イエス様は、天の御国とは、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようだと言われました(マタイ25:14)。主人は、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを預けて旅に出ました。このタラントは、「信仰」を指します。信仰が与えられるとは、永遠のいのちを持つことを指します。永遠のいのちとは、イエス・キリストご自身を指します。私たちはキリストのからだの一部だとあるが、私たちは神の一部に組み込まれています。ですから、イエス様は自分の財産を預けると言われました。


私たちは、神から信仰という神の財産を預かっています。預かっている以上、財産を清算するときがきます。イエス様は、タラントのたとえで、その清算の様子を話されました。五タラント預かった者は、商売をしてさらに五タラント儲けました。それを知った主人は、そのしもべをほめました。二タラント預かった者も、同様に儲けました。ところが、一タラント預かった者は、地を掘って隠していました。何も使わなかったのです。主人は、そのしもべをしかりました。


ここで、商売をして儲けるとは、信仰を使って神への信頼という永遠の財産を貯めたことを意味します。それに対して、地に隠していたとは、神への信頼という財産を貯めなかったことを意味します。このように、神は人が信仰を使うかどうかに関心があります。信仰を使うことが、人を救い、神への信頼を築くことだからです。