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2012年4月22日
『御言葉を食べる』

人は、肉体(ちり)と魂(神のいのちの息)から出来ています。ということは、人は、見える世界と、見えない世界で生きる存在といえます。見える世界では、人は人との関係の中で生き、見えない世界では、私たちは神との関係の中で生きています。つまり、人は見える世界と、見えない世界の両方で生きています。見える世界で生きているのは体であり、生きるために食物を必要とします。見えない世界で生きているのは、神のいのちが宿る魂であり、生きるために神の言葉を必要とします。

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』(新約聖書 マタイの福音書 4:4)

とあるのはそのことを教えています。


では、人が「つらい」と感じるのは、体なのでしょうか、それとも魂なのでしょうか。体であれば、それは病気のサインであり、解決は、見える世界で病気を治すしかありません。しかし、つらさを覚えるのは魂です。魂に直接関わっているのは、神ご自身です。人は、神からの食事で養われる仕組みになっています。だから、見えない世界の神にしか治すことはできません。見える世界のものは、魂に直接触れることができず、魂を満たすことも、どうにかすることもできません。別な世界の出来事だからです。


例えば、今あなたはお腹が空き、とてもつらい状態にあるとしましょう。その中、テレビに美味しそうな食べ物が映し出され、あなたもご一緒にどうぞと誘われたとします。その映像には、お腹を満たしてくれる食べ物がたくさん映し出されていました。しかし、どんなに美味しそうに見え、どうぞ食べてくださいと言われても、体はそれを食べることはできません。それは、あくまでも映像という別な世界の出来事だからです。お腹に直接入れることができ、満たすことができるのは、実際に手にできる食べ物だけです。これと全く同じことがいえます。


魂からすると、見える世界は単なる映像にすぎません。どんなに美味しそうな物を見せられても、魂はそれを食べることができません。どんなに宝物を見せても、それを手にすることはできません。ですから、魂は、見えるこの世界の出来事では満たされずに空しさを訴えます。ですから、神は下記の御言葉にあるように、「恐れるな」といわれました。魂が、どんなに恐ろしい映像を見せられ、いのちを奪われそうになっても、魂には何ら手出しすることはできないからです。魂は、この見える世界に属していない以上、誰も魂に手出しはできません。手出しができる方は、魂が属している神だけです。


『からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。』(新約聖書 マタイの福音書 10:28)


では、魂に必要な御言葉を食べさせるということについて考えていきましょう。御言葉を食べるとは、聖書の言葉を信じることを指します。どこまで御言葉を信じられるか、それがどれだけ食事ができたかということになります。それなら、簡単に魂に御言葉を食べさせられると思うかもしれません。しかし、信じようとするときに、信じさせない働きがあることに気づきます。それをやっつけないと食べられないのです。信じようと思っても、簡単には信じられないのです。この邪魔する働きを、罪(肉の価値観)といいます。罪は、人の中に入り込んだ病原菌のようなものです。人が、神の言葉を食べたいと思っても、食べられないように足を引っ張ります。


これが、クリスチャンが抱えている問題です。私たちクリスチャンは、神に接ぎ木され神の言葉が食べられる状態になりました。しかし、古い習慣から御言葉を食べようとしないのです。せっかく、神の木につながれたのに、養分を吸い上げようとしないのです。今まで親しんできた肉の価値観が、見えるものに価値があると思わせ、人から良く思われる鎧や富の鎧などで魂を満足させようとし、御言葉をふさぐのです。見えるものの喜びで、魂のつらさをごまかしてしまいます。つらさがごまかされれば、人は自分の魂が空腹であることを忘れてしまいます。イエス様は、こうした御言葉をふさいぐ実体を、次のように言われました。


『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)


実とは、神の安息である「平安」を指します。魂が、御言葉を食べることで手にする平安です。その平安が、この世の心づかいと富の惑わしによって、御言葉が食べられないために実らないと言われました。このように、神との関係が回復したクリスチャンの問題は、御言葉が食べられないことにあるのです。私たちは、せっかく神の言葉が食べられる状況にありながら、いまだに肉の価値観にだまされ、魂は瀕死の状態にあります。そうした肉の価値観に、人々がだまされている様子を見てみましょう。


あるとき、イエス様は

『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:54)

と説教されました。そのとき、多くの弟子はつぶやきました。

『そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:60)

彼らは、イエス様の言葉よりも、自分の判断の方が勝っていると考えたからこそ、つぶやけたのです。つぶやきは、自分の方が偉いとする態度です。こうして、弟子たちは神の言葉を食べませんでした。そして、イエスの元を去って行きました。もともと、弟子は大勢いましたが、こうして減っていったのです。


パウロは、肉の価値観のことを「人間的な標準」と言い方をしています。

『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:16)


パウロも、私たちが戦うべき敵は、御言葉を食べさせない人間的な標準である「肉の価値観」であることを述べています。この肉の価値観は、神の言葉よりも、人の言葉の方が、価値があると思わせます。神の言葉よりも、見える富の方が、価値があると思わせます。つまり、「この世の心づかい」と「富の惑わし」の方が、神の言葉よりも勝ると思わせるのです。


ですから、神はアダムとエバに、善悪の知識の木の実を食べるなと警告されました。食べると、必ず死ぬと警告されました。しかし、彼らは実を食べた結果、人の中に「死」が入り込み、私たちは、その死の恐怖から、見えるものにしがみつく「肉の価値観」を持ってしまいました。神とは異なる善悪を知る知識を持ってしまいました。その肉の価値観が、今日、私たちの魂を餓死の状態にしているのです。私たちは、神の言葉を食べるために、この肉の価値観と戦っていく必要があります。では、どうやって肉の価値観と戦えばいいのでしょうか?三つのポイントを見ていきましょう。


1.つぶやかない戦い

イエス様の多くの弟子たちは、イエス様が言われたことで、分からないことに対してつぶやきました。分からないことが起きたとき、神様、分からないので助けてください。と祈りましょう。そして、分かるときが来るまで待つことです。分からないからといって、つぶやいてしまっては、ますます神の言葉が食べられなくなります。分からないことは、分からないままとっておけば、必ず分かるときがきます。


人が最も理解に苦しむ御言葉に、「異言」のことが書かれたものがあります。しかし、異言は、聖書が記している事実であり、たとえ分からなくとも、それを賜る人が大勢起こされています。(使徒10:44)ですから、そのことも自分が理解できないからといって批判するのではなく、素直に受け取ることです。


2.信じる戦い

神の約束を信じたいと思うなら、言葉を制御する必要があります。信じるためには、自分の言葉と戦う必要があります。これが、信じるための次なるステップとなります。とにかく、信じることを語るのです。パウロは、そのことをこう言っています。

『「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:13)


3.罪を隠さない戦い

自分の肉の価値観を熱心に認め、悔い改めることです。悔い改めれば、そこでイエス様が共に食事をしてくださるとあります。

『わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』(新約聖書 黙示録 3:19,20)


イエス様は、私たちに次のような食事をさせてくださいます。

1.十字架の贖いを信じる御言葉

2.問題の解決を信じる御言葉

こうした信じる御言葉を、私たちが心から信じられるように助けてくださいます。そのためには、熱心になって悔い改めることです。人はみな、神の言葉が食べられない病気になっています。その病気を素直に認めればいいだけです。そのとき、神は、食事が食べられるようにしてくださいます。