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2012年3月25日礼拝メッセージ
『つぶやきと戦う』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 8章)

『以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法に従ってささげ物をする人たちがいるからです。・・・』(新約聖書 ヘブル人への手紙 6:1〜5)


イエス様は、大祭司として天で私たちをとりなしておられるということが書かれています。大祭司は、人々の罪をとりなすために、捧げ物をしますが、イエス様は、地上の祭司にかわって、天で行っておられます。その捧げ物は、イエス様ご自身です。罪の罰として、ご自分をお捧げになり、天に昇られて、私たちをとりなしておられるということがここでは述べられています。


『しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 6:6〜10)


イエス様は、私たちに新しい契約を結んでくださいました。どういう契約かというと、神の律法を人々の心に書きつけるというものです。これは、すなわち信仰を与えるという意味です。しかも、私たちの努力で神を信じるのではなく、神が一方的に与えるという約束です。


世の中でいう「信じる」という行為は、自らの意志や努力を必要とします。ところが、神が私たちに下さる信仰は、私たちの側から発するものではなく、一方的に与えられるものです。私たちが神を信じられるのは、神が信仰を下さったからです。人は、自らの意志で神を信じる決心をしたかのように思いますが、実は、それより先に、神が心に住んでくださり、聖書のことばによって、イエス様を神だと信じられるようにしてくださいました。まだ見たこともないイエス様を、救い主なる神として信じられるのは、神が信仰を下さったからにほかなりません。私たちは、ただ神から頂いた信仰により、神を確認できたにすぎないのです。確認したことを告白しただけです。心に住まわれ神を確認できたからこそ、信じますと告白できたのです。これが、神からの信仰です。あなたがたの心に信仰を与えるという意味です。


『また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 6:11〜12)


さらに素晴らしいことに、神は信仰を与えるだけでなく、神を信頼できるようにするといっています。理由は、もう私たちの罪を思い出さないという赦しの恵みを用意してくださったからです。それまで人々は、良い行いをしてほめられたら神に近づけると思っていました。しかし、私たちは、罪を神に差し出すことによってその恵みに預かり、神を信頼できるようにされたのです。


ヘブル書8章は、7章に引き続き、神は私たちをとりなす神であり、助ける神であることを明確にしています。神は、罰を与える神だということは一言も書いてありません。にもかかわらず、私たちは、何か予期せぬ出来事に遭遇したり、失敗したりすると、「自分の行いが悪いから罰が当たった」と考えてしまいます。そして、良い行いをして、神に赦しを乞おうとしてしまいます。神は、罰など与えません。むしろ、私たちがつらくてどうしようもないとき、助けたいと考えておられます。だから、神に助けてくださいと言えばいいだけです。神をどうイメージするかは非常に重要です。


神は、私たちに神を信頼できる道を備えてくださいましたが、正しい神のイメージを持っていないと、決して神に近づくことはできません。神を怖い方だと思えば、人は近づかないのです。ですから、神に対して間違ったイメージを作らないために、私たちは、「つぶやき」と戦う必要があります。なぜ、つぶやきと戦うことが神へのイメージとつながるのでしょうか。


もし、私たちが神は全てのことを益とされ、いつも私たちをとりなしてくださる愛なる神だとイメージしていれば、予期せぬ出来事に出会っても、とりなしてくださるイエスがおられるから大丈夫だと思えます。神は愛であるというイメージからは、つぶやきなど起きません。神は、何事であろうとも、全てを益としてくださるのだから神に感謝できます。ですから、聖書に

『すべての事について、感謝しなさい。』(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 5:18)

とあります。それが、感謝できずにつぶやけるということは、いつも共におられ、とりなしてくださるイエスの愛の姿をイメージできていないという証拠です。かつてイスラエルの民は、つぶやいたために、平安が手に入りませんでした。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。(Tコリント10:10)私たちは、間違った神へのイメージをつぶやきと戦うことで、修正していくことができます。つぶやきとは、さばくことでもあり、つまずくことでもあります。


そもそも、なぜつぶやきは起きるのでしょうか。聖書は、こう教えています。

『つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:8)


御言葉に従うというのは、御言葉がどう教えているかという物差しで物事を見ることです。御言葉で見ないからつまずくとあります。人は、つまずくと、相手をさばきます。つぶやきます。つらくなる原因は、相手にあるのではなく、御言葉で人を見ないからつらくなるのですが、そのことに気づきません。自分がつらくなる原因は、相手にあるのではなく、自分にあります。本質的な解決をするには、間違った物差しを捨てるしかありません。つまずくのは御言葉に従わないからです。


かつて、イエス様は、弟子たちにこう言われました。

『イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。・・・』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:53)

この話を聞いた弟子たちの多くは、イエス様につぶやきました。

『そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:60)


彼らのつぶやきは、人間的な標準でイエス様の話を捉えようとしたために起きました。確かに、人間的な標準では、人の子の肉を食べ、またその血を飲むなどあり得ない話です。弟子たちとしては、自分の物差しの枠に収まらないから、イエス様はひどい方だという見方になります。人に使うのと同じ物差しで、人は、神を見てしまうことが分かります。それが、つまずきをもたらし、つぶやきを口にさせます。


イエス様は、このつぶやきに対して、

『しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:61)

と言われました。イエス様は、つまずきと戦うよう促されましたが、彼らは耳を傾けることをせず、弟子たちのうちの多くの者が去って行きました。

『こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:66)

このように、人を見る人間的な標準の物差しが人をつまずかせ、つぶやきを口にさせ、間違った神のイメージを心に育て、私たちを神から引き離してしまいます。


ところが、ある人はこう言います。自分は、神に対してはつぶやいていないと。聖書は人に対してすることも、神に対してすることも同じだと教えています。

『そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。』(旧約聖書 出エジプト記 16:2)

モーセに引き連れられたイスラエルの民は、何度もつぶやいたことが聖書に記録されています。彼らは、ことあるごとにモーセやアロンにつぶやきました。彼らは、モーセは神ではないので、彼につぶやくことなど、大したことはないと思ったでしょう。しかし、人に対するつぶやきは、そのまま神に対するつぶやきと見なされました。なぜなら、人は神のいのちの一部であるからです。ですから、モーセは

『あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、【主】に対してなのです。』(旧約聖書 出エジプト記 16:8)

と述べています。


人は、人を見る物差しも、自分を見る物差しも、神を見る物差しも、同じものを使っています。神を見るときだけ、人を見るときだけ、違う物差しを使うことなどできません。ということは、人をさばけばさばくだけ、悪いことをしたなら、罰が科せられるとする思いを強くしていきます。こうした思いは、罰を恐れる心となり、周りの目を恐れさせるようにしてしまいます。その周りの目の中に、神の目も含まれます。


要するに、さばけばさばくだけ、自分もさばかれるのではと怯え、周りの目や神の目を恐れるようになるのです。神のイメージが、怖い神になってしまいます。恐れるがゆえに、ますます自分が良く思われようと、鎧に身を隠してしまいます。鎧にしがみつくことで、安心を得ようとしてしまいます。心は、人に対しても、神に対しても閉ざされてしまうのです。


しかし、そうした鎧は、所詮一時的なものにすぎません。いつかは消えてなくなる運命にあります。そうした見える鎧にしがみつけばつくだけ、心は不安定になります。心の安心が、見るものに左右されるようになるからです。自分の鎧がいつも気になり、それが少しでも悪くなると、たちまち不安になります。これが、人の心のつらさです。つらさとは、心が安心してしがみつけるものがない状態のことをいいます。


すなわち、クリスチャンは人をさばけばさばくだけ、神に対して心を閉ざしてしまい、見えるものにしがみつくしかなくなるのです。結果、心は不安定になり、ますますつらさが増し加わってしまいます。つらくなると、ますます周りをさばくことで、一時の安心を手にしようとします。まさに、罪の連鎖です。こうしたからくりが分かると、人をさばくことが、いかに愚かな行為であるかが分かるでしょう。そんな愚かなことを避けさせるために、イエス様は、人をさばいてはならないと教えられました。


『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:1〜2)


イエスは、自分が量るとおりに、自分も量られると教えられました。人をさばけばさばくだけ、同じ物差しで、自分もさばかれるのではと怯えてしまうのです。つまり、つぶやくことと同じように、さばくことは、それがそのまま、神を恐れる感情となり、神との距離を引き離していくのです。つぶやくことも、さばくことも、全く同じなのです。


このように、つぶやきの原因は、御言葉に従おうとしないことにあります。神の言葉で物事を見ないことにあります。私たちは、神の言葉で、神を知り、人を知ろうとして生きていきましょう。そして、つぶやくことと戦っていきましょう。


『ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:16)