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2012年3月18日礼拝メッセージ
『イエスに対するイメージ』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 7章)

ヘブル書7章は、メルキゼデクのことが述べられています。

『このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 7:1〜3)


旧約聖書において、メルキゼデクについての記載はほとんどされていません。彼の系図や、どんな者であったかも詳しいことは何も語られていません。しかし、彼は、アブラハムが仕えた祭司であり、イエス・キリストのひな型として扱われる人物です。


『その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、自分もアブラハムの子孫でありながら、民から、すなわち彼らの兄弟たちから、十分の一を徴集するようにと、律法の中で命じられています。ところが、レビ族の系図にない者が、アブラハムから十分の一を取って、約束を受けた人を祝福したのです。いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。一方では、死ぬべき人間が十分の一を受けていますが、他の場合は、彼は生きているとあかしされている者が受けるのです。また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 7:4〜10)


アブラハムがメルキゼデクに十分の一を収めていたとき、まだ「レビ族」が祭司職に就くという律法は定まっていませんでした。というのも、レビ族は、アブラハムの子孫に当たるからです。アブラハムが、祭司職の定まる以前に、メルキゼデクという祭司に仕えていたということは、メルキゼデクは血肉によって立てられた祭司ではなく、神に直接立てられた祭司であり、族長であるアブラハムが仕えていたことから、他のどの祭司よりも上位にあるということです。


『さて、もしレビ系の祭司職によって完全に到達できたのだったら、──民はそれを基礎として律法を与えられたのです──それ以上何の必要があって、アロンの位でなく、メルキゼデクの位に等しいと呼ばれる他の祭司が立てられたのでしょうか。祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。私たちの主が、ユダ族から出られたことは明らかですが、モーセは、この部族については、祭司に関することを何も述べていません。もしメルキゼデクに等しい、別の祭司が立てられるのなら、以上のことは、いよいよ明らかになります。その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらないで、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 7:11〜16)


メルキゼデクと同様に、神によって立てられた私たちの大祭司であるイエス様は、それまで祭司職を担ってきたレビ族から生まれたのではなく、ユダ族から出ました。祭司職が変わったのですから、律法も変わらなければなりません。


さて、なぜ、ヘブル書では、ここまで、メルキゼデクについて取り上げられているのでしょうか。ヘブル書は、ヘブル人宛てに書かれた手紙です。ヘブル人にとって、一番好感の持てる人は、罪をとりなしてくれる祭司でした。大祭司であるメルキゼデクとなれば、ことさらです。彼らは、レビ人に仕え従って生きていました。その中で、様々な規定を作り、神の教えから逸れていきました。そして、神に対して、厳しい律法で縛り付けるという間違ったイメージを持っていました。ですから、とりなしてくれる大祭司を慕っていたのです。ヘブル書で繰り返し、イエス様を大祭司と言っているのは、神は罪をとりなす優しい方だということを示すためです。


『この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、──律法は何事も全うしなかったのです──他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 7:17〜19)


レビ族は、律法や規定を守り行うことで救われるという方向に走り、神の教えを完全にゆがめてしまいました。行いで神を知り、神に近づこうとするなら、そこには希望がありません。誰一人、救われることはありません。しかし、イエス様が来られたことで、この律法は廃止され、イエス様を信じるだけで救われるという希望がもたらされました。イエス様ご自身が、新しい律法なのです。これを「救いの恵み」といいます。


『また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。──彼らの場合は、誓いなしに祭司となるのですが、主の場合には、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」──そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 7:20〜22)


祭司が変われば、律法は変わりますが、イエス様は、永遠なる祭司です。これより先、新しい祭司は生まれません。ですから、「イエス・キリストを信じるだけで救われる」というこの律法は、永遠に続くのです。


『また、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 7:23〜25)


これを「赦しの恵み」といいます。私たちは、イエス・キリストを信じて、永遠いのちを手にしたら、今度は、その信仰を使って神と親しい関係を築くため、神に近づこうとします。心を神に向けようすると、自分の中にそれを邪魔するものがあることに気づきます。神ではなく、見えるものにしがみつこうとする思い、そこから発する怒りや、悪い思い、悪い行為、これらを罪といいます。この罪を何とかしなければ、心を神に向け、神に近づくことはできません。ですから、罪に気づいたなら、「神様、私は見えるものにしがみついたために、怒ってしまいました。見えるものにしがみつくために、思いどおりにならないと怒ってしまいます。どうか、この罪を赦し、取り除いてください」と祈ることです。神は、神に近づくことをとりなしてくださいます。無条件で罪を取り除いてくださり、人は平安を手にすることができます。このように、キリストがとりなしてくださる恵みを「赦しの恵み」といいます。


『また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 7:26)


イエス様は、私たちにとって、怖い神ではなく、優しい良い神様です。いのちを回復させ、罪をとりなしてくださる、私たちにとって、イエス様はまさになくてはならない、必要な方です。しかし、私たちは果たしてそういうふうにイエス様のことをイメージしているでしょうか。私たちが、神を良い神だと思っているかどうかは、簡単に調べることができます。それは、何か災いに遭ったとき、罰が当たったという考えが頭によぎるかどうかで分かります。日頃の行いが良くないからこんな目にあったと思うなら、それは、神を怖い方だとイメージしているのです。そして、神を怖い方だとイメージするために、罰を受けないように、良い自分を演じてしまいます。しかし、いくら良い自分を演じたところで、神が怖い方だというイメージが変わらない限り、神に近づくことはできません。神を怖い方だと思うと、ガードを張って、神に近づかない生き方をしてしまいます。イエス様が、自分にとって必要な方だと理解できるとき、人は神に近づいていくことができます。このことを理解するのに、イエス様が語られたタラントのたとえを見ると大変分かりやすいです。


主人は、しもべたちに、タラントを預け、それを使って稼ぐように言われました。それぞれ、預かったタラントに応じて稼ぎましたが、一人のしもべはこう言いました。


『ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』』(新約聖書 マタイの福音書 25:24,25)


タラントは、才能や、能力ではなく、神から頂いた信仰を指しています。信仰を使って稼ぎなさいと言われました。何を稼ぐのでしょうか。それは、神への信頼です。このしもべは、預かった信仰を使いませんでした。なぜなら、神を恐ろしい方だとイメージしたからです。神をどうイメージするかで、神への信頼を増し加える道を進むかどうかが決まってしまうということです。たかがイメージと思われるでしょうが、重要な位置を占めています。


ヘブル書は、神への誤ったイメージを軌道修正するために、イエス様が大祭司であられ、私たちをとりなす良い神だということを、何度も繰り返し述べているのです。


『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:15,16)


イエス様は、私たちにとってなくてはならない方です。