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2012年3月11日礼拝メッセージ
『罪と戦う』

一般に罪と戦うというと、罪の罰を受けたくないから戦うのだと考えられてしまいます。しかしそれは完全な勘違いです。なぜなら私たちクリスチャンには、罪の罰は何もないからです。イエス様が罪の罰をすでに背負ってくださり、債務証書を十字架で無効とされました。

『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 2:14)

ですから、私たちは罰を恐れるから罪と戦うのではありません。では、素朴な疑問として、なぜ罪と戦うのかを確認しておきましょう。


神が言われる罪とは、心を神に向けないことをいいます。見えるものに自分の価値を依存し、見えるもので心を満たそうとすること、それが罪です。その結果、人は様々なつらい思いをします。例えば、人からの評判で心を満たそうとすると、人の目が気になり、周りを恐れてつらくなります。人に分かってもらおうと頑張っても、分かってもらえないとつらくなります。また、富で心を満たそうとすると、人の持つ車や家が気になり、自分はダメだとつらくなります。お金が少なくなると、不安になりつらくなります。全ては、見えるもので心を満たそうとするためです。心を神に向けない罪がもたらす副作用で、人はつらくなっているのです。


すなわち、罪と戦うとは、こうした副作用のつらさから逃れる戦いを意味します。罰を受けたくないからではなく、つらさから逃れたいから、罪と戦うのです。逆に言うと、つらいままでも構わないのであれば、罪と戦う必要はありません。でも、真の平安が欲しいと願うなら、罪と戦うしか道はありません。神に心を向け、しっかり神につながるしか道はありません。つらさからは逃れたいけれども、見えるもので心を満たすことはやめたくないから何とかならないかと相談されても、そんな平安の道はありません。


人は、常に見返りを求めて行動しています。一生懸命に働き、富の見返りを期待します。一生懸命にほめられようと頑張り、人から良く思われること(人の歓心を買う)を期待します。ところが、一生懸命に働いても、期待したとおりの富の見返りが得られないとどうなるでしょうか。一生懸命に頑張っても、期待したとおりの人の歓心が買えなければどうなるでしょうか。何とか、期待どおりの見返りを手にしようとしないでしょうか。要は、自分の思っていたことと違う反応だったと感じたなら、何とかして、思っていたとおりにしたいと思うのです。このときに発生する感情を、「怒り」といいます。


怒りというと、怒鳴ったりとか、カッカしたりとか、そうした激しい様子を思い浮かべますが、それは怒りの一つの姿にすぎません。怒りとは、自分の考えと違いを感じたときに生まれる感情です。人は違いを感じたら、何とか相手を自分の考えに合わせようと、怒りの感情を用います。単純に、怒鳴ったりして腹を立てる人もいますが、多くの場合、怒りの感情は姿を変え、自分の期待した結果を得させようと働きます。


例えば、十分な富の見返りが得られなかったなら、芽生えた怒りは、相手を裁く思いに姿を移行し、相手に文句を言う行動を取らせ、富の見返りを得させようとするかもしれません。例えば、十分な人の歓心が買えなかったなら、芽生えた怒りは、落ち込むことに姿を移行し、どうせ自分はダメな者と言わせ、人の同情を買うことで歓心を得ようとするかもしれません。いずれにせよ、見えるもので心を満たすべく働いている不信仰は、むさぼりが思いどおりにならないと、「怒り」を使い、その思いを達成させようとします。


今日、怒りが人の心を苦しめていることは広く知られています。神は、人に怒りが起きることは避けられないと教えています。死を背負っている限り、罪である怒りがなくなることはありません。怒りは、私たちに肉の価値観がある限り、勝手に発生してしまいます。神は、この発生する怒りを、どう処理するかを問題にされています。その処理方法は、怒りをもたらした心を神に向けない不信仰の罪を認め、神にその罪を言い表し、悔い改めることで処理するように教えています。


『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:8,9)


この御言葉に「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」とあります。罪とは心を神に向けないことであり、怒りがその実行部隊です。すなわち罪である怒りは必ず起き、避けられないことを教えています。神は、そのことは問題にされていません。問題はむしろ、怒りという罪を認めないことにあると言われています。そのことをこの御言葉の続きで「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(Tヨハネ1:10)と述べています。だから大事なことは、罪を正しく処理することです。その処理方法は「私たちが自分の罪を言い表すなら」とあります。怒りの不信仰の罪を認めることで、処理するのです。


怒りが、その姿を他のものに変える前に、心がつらさを覚えたなら、すぐに「私は見えるものに頼り、心の平安を得ようとしていました。どうか、私の不信仰の罪をお赦しください。」と、祈るのです。罪を告白するなら、神は、「その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。これが、怒りの正しい処理であり、罪と戦うという具体的な中身です。この処理こそが、「赦しの恵み」です。罪を処理する方法は、これ以外に何もありません。神に罪を差し出すと、神はその罪を焼却してくれます。そういう意味では、罪はゴミと同じです。


ゴミは、正しく出すことで収集され、確実に焼却してもらえます。私たちのすべきことは、ゴミを正しく出すことです。しかし、ゴミを正しく出さないで、自分のところに隠し続けたり、周辺に不法投棄をやり続けたりするとどうなるでしょうか。やがて、家も周囲もゴミ屋敷となり、とんでもないことになります。ですから、ゴミは正しく処理される必要があります。怒りの罪も同様です。神に差し出す以外の処理をすると、とんでもないことになります。では、罪の場合は、間違った処理をするとどうなるのかを話しておきましょう。


怒りの処理で、最も一般的にされている処理が、人を裁くことです。怒りから人を裁くと、確かにそのときはすっきりします。なんだか自分が偉くなった気分になれます。人はそうやって、自分の怒りを気楽に処理しています。しかし、これは正しい処理方法ではないので、ゴミの処理同様に、最悪の結果をもたらします。それは、家も周囲もゴミ屋敷としてしまうのです。そして、ゴミ屋敷の中で暮らすようになります。なぜそうなるのかは、考えてみれば分かります。


怒りを覚えて人を裁き、それを誰かに話すと、聞かされた相手はどうなるのでしょうか。相手も次第に、怒りを共有するようになります。共有した結果、共に怒る人もいれば、気分が滅入ってしまう人もいます。すなわち、人を裁く話をすることで、怒りのゴミを人の心に不法投棄したのです。不法投棄された人の心からは、いずれにせよ、平安が失われていきます。それだけではありません。裁く言葉を吐くことで、その言葉は自分の耳にも入り込み、自分の心の中にも捨てられていくのです。たとえ言葉にしなくても、心の中で裁いても、心の耳はそれを聞いています。ですから、怒りのゴミが心の中に貯められていきます。やがて、心の中は怒りのゴミでいっぱいになり、ゴミ屋敷となります。それが、どれだけの苦しみとなるかは言うまでもありません。


心がゴミ屋敷のようになってしまった経験のある人の話によると、それはまるで地獄のような苦しみだと言います。何から片付けてよいのか分からず、生きること自体が重荷になると言います。また、人の怒りを聞かされ続けた人の話によると、それもまた、非常な苦しみだったと言います。ですから、イエス様は、繰り返し、人を裁くなと教えられました。怒りを、人を裁くことで処理すると、それは必ず自分に返ってくると言われました。


『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:1,2)


このように、怒りを正しく処理しないと、とんでもないことになります。罪の処理は、神にしかできません。そのために、罪を焼却する赦しの恵みがあります。しかし、人はイエスの警告を無視し、裁くことを止めません。そして、ひどいつらさに襲われます。そうした苦しみを、神からの罰だと勘違いします。でもそれは、神からの罰では断じてありません。正しい処理をしなかった結果にすぎません。


私たちは、日々、大なり小なり怒りを抱えているものです。ですから、違いを感じ、怒りに気づいた時点で、すぐに神の前に罪を認めることです。「私は見えるものに頼り、心の平安を得ようとしていました。どうか、私の不信仰の罪をお赦しください。」と、その罪を認め、神に赦しを乞うことです。神は、その罪を取り除き、つらさから解放してくださいます。