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2012年2月5日礼拝メッセージ
『安息に入る』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 4章)

『こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:1)


「安息に入る」とは、平安を手にすることです。これを神の家に住むことにたとえてみます。私たちは、永遠のいのちを頂き、神の家の中に住まわせてもらえるようになりました。しかし、一つ屋根の下に暮らしていても、神と親しく交わるのか、全く口をきかない生活をするのかは、その人次第です。私たちは、神と交わりが深まるほどに、平安を手にします。そのことを、ヘブル書では「安息に入る」と説明しています。安息に入るというと、神の家に入れてもらうことだと考える人がいますが、それは違います。私たちは、イエス・キリストを信じ、もうすでに神の家に入れられています。神は、その家に私たちを住まわせることだけが目的で私たちを救ったのではありません。神の家で、私たちが神と親しく交わり、平安を手にすることを望んでおられるのです。ですから、ここの御言葉は、せっかく神と共に生きる環境に置かれたのだから、神の家で神と交わり、平安を手にしていきましょう、という意味です。


そのためには、「恐れる心を持とうではありませんか」と書かれていますが、これはどういう意味でしょう。聖書には、「恐れなさい」という言葉と共に、「恐れるな」という言葉もたくさん述べられています。言葉尻だけ見ると、聖書は矛盾することを語っているようですが、そうではありません。神は、神に対しては、恐れなさいと言われ、世の中に対しては、恐れるな、と言われます。では、そのことを詳しく見ていきましょう。


そもそも、全ての恐れは、「死の恐怖」から発しています。人には、肉体の死があるため、誰もが恐れを抱えています。聖書は、「死の恐怖」自体を罪だとは言っていません。これは、悪魔によってもたらされたものであり、神はこれを人の弱さだと言われます。問題は、この弱さを私たちがどう処理するかです。世の中は、この弱さをうまく利用し、人の心に一時の安心を与えようとします。例えば、「災いに遭いたくなければ、○○しなさい」とかいった具合に、恐怖心をあおって、神ではないものに頼らせようとしてきます。一時は安心を得られても、そこには常に新たな恐れがつきまとい、決して平安に行き着くことはありません。ですから、神は、そうしたものに対して、「恐れてはなりません」と言われます。


それに対して、神も私たちの弱さを用いられます。しかし、神は、私たちの恐怖心をあおることはなさいません。ただ、私たちが弱さに気づき、神にしがみつくのを待っておられます。人が神にしがみつくとき、神はその弱さのうちに完全に働き、神を心から信頼できる平安を与えてくださいます。だから、聖書は、私たちの心にある恐れを神に向けなさいと言っています。それが、神を恐れるという意味です。「恐れ」とは、心の向きを左右するものです。私たちが、恐れを神に差し出すとき、神は、それを安息に入るために益としてくださいます。


『福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:2)


御言葉は、私たちの信仰を呼び起こす働きをします。だから、御言葉を聞いても、信仰が働かないなら、それは、その人と御言葉が結びつかなかったということです。では、御言葉を聞いて、信仰が働くとはどういうことか、12節から13節の御言葉を通して見てみましょう。


『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:12〜13)


これは、神の言葉の働きが書かれています。神の言葉は、すべてのものを明らかにします。御言葉を聞いて、信仰が働くとは、つまりこういうことです。御言葉を聞くと、私たちは、それを実行するように信仰によって促されます。御言葉を実行すると、今度は、それができない罪に気づかされます。私たちは、その罪を神に弁明しなければなりません。神にその罪を認め差し出したら、神は全部赦してくださいます。その働きを信仰が担っています。御言葉を聞いて、信仰が働くと、人は必ず罪の悔い改めに至るように導かれます。こうした流れを、信仰によって、御言葉が人に結びつけられると言います。


『信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。こういうわけで・・・「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:3〜7)


神が7日目に休まれたことは、私たちにも、必ず安息はあるということを示すためです。ですから、神の御言葉を聞くなら、心をかたくなにしてはならないと言われました。御言葉を聞いて、信仰が働くと、罪が照らされます。その罪を認めないことをかたくなな心と言います。


『もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。神は必ず平安を与えてくださるから、かたくなになってはいけないと繰り返し語られています。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:8〜10)


『さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 4:14〜16)


イエス様のことを「大祭司」と表現するのは、大祭司の務めに民の罪をとりなす役目があったからです。イエス様は私たちの大祭司であり弁護人です(Tヨハネ2:1)。イエス様は私たちの抱える「死」を経験してくださいました。私たちが死の恐怖に怯える存在であることを知っておられ、私たちに同情しとりなしてくださいます。ですから自分がその弱さから罪を犯してしまうことを認め、イエス様の赦しの恵みを受けに行こうではありませんか、というのがこの御言葉の意味です。この恵みの御座に近づくとき、私たちは安息を手にすることができます。


イエス様の恵みの御座に近づくには、とにかく、御言葉を実行して、罪に気づくことがカギとなります。御言葉は、私たちを罪に気づかせるためのものです。什一献金や、隣人を愛すること、自分にとって難しいと思う御言葉を通して、私たちは自分の罪に気づきます。罪に気づいたら、それを差し出して祈ればいいだけです。「自分にはとてもできません。神様、あわれんでください」と。私たちは、御言葉をできるようになるために、御言葉に従っているのではありません。結果的に、御言葉を実行できるように変えられていきますが、御言葉に従うのは、罪に気づいて、神の赦しの恵みを受け、神への信頼を築いていくためです。これが、安息に入るということです。