ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2012年1月29日礼拝メッセージ
『安息に至る道』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 3章)

神は、私たちに平安を与えたいと考えておられます。私たちも、また平安を欲しています。この平安を、ヘブル3章では、「安息に入る」という言い方をしています。神が与えてくださる平安は、見えるものにしがみつくことで得る平安ではありません。神を心から信じられることから生まれる平安です。見えるものに依存する平安はもろく、いずれは消え去ってしまいます。しかし、神への信頼は、永遠に残ります。


こうした平安(安息)を手にする道のりを、ヘブル3章では、モーセがエジプトの地から人々を助け出したことと重ねられています。しかし、実際、安息に入れたのは、ヨシュアとその家族だけでした。このことからも、神が与えたいゴール(安息)に入ることは容易ではないことが分かります。けれども、それと同時に、聖書は、ゴール(安息)に行き着くための道のりも示してくれています。


《 平安を手にする上で必要な3つのこと 》

1.イエスのことを考えなさい

『そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:1)


「イエスのことを考えなさい」と言われても、イエス様の実体が分からなければ、イエスのことを考えることはできません。聖書は、神の実体を「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)と説明しています。ですから、イエスのことを考えるとは、神の御言葉に心を向けるということです。では、御言葉に心を向けるとは、どういう実体なのでしょうか。


『ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。』(新約聖書 ヤコブ人への手紙 1:25)


御言葉に心を向けるとは、御言葉を実行することを意味します。ただし、この御言葉を読むときに注意しなければならないことがあります。それは、御言葉を実行する目的と、祝福という言葉の意味です。多くの場合、「神の御言葉を実行し、達成すれば、神からほめられ、ご褒美をいただける」と考えられがちです。しかし、それは大きな勘違いです。御言葉を実行する目的は、罪に気がつくためです。御言葉をまじめに実行しようとすれば、私たちは必ずそれができない罪に気づきます。表向きはできたとしても、心の中を照らされれば、ちっとも実行できないことに気づくはずです。神は神に頼らなければできないということに気づかせるために、御言葉を実行するように言っておられます。なぜなら神に頼らなければできないということが、神への信頼につながり、平安となるからです。神への信頼からしか平安は生まれません。


ですから、安息に入る(平安を手にする)ためには、まず罪に気づかなければなりません。イエスのことを考えるとは、そうしたことを意味します。


2.心をかたくなにしてはならない

ヘブル人への手紙3章2節〜6節は安息に入ること、すなわち平安を得ることが、神の家にたとえて述べられています。そして、7節からは、安息に入るための道の説明が続きます。


『ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:7)


心をかたくなにするというのは、自分の罪を認めないことです。心をかたくなにすると、安息に入ることができません。ですから、私たちは、罪を認め、悔い改める必要があります。


では、私たちが認めるべき罪とは何でしょう。聖書が教える罪とは、心を神に向けないことです。何かをしたというのは罪の行為であって、罪の本質は、見えるものにしがみついて平安を手にしようとする心です。神ではないものに心を向けて安心を得ようとすることです。悪いことをしないというのは、罪と戦うことの氷山の一角にすぎず、本当の意味で罪と戦うというのは、見えるものに向いてしまう心を神に向けようとすることを意味します。心を神に向けることを、聖書では悔い改めるという言い方をします。


『それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:4,5)


この御言葉も注意が必要です。神の怒りとかさばきという言葉が出てくると、どうしても、「永遠のさばき」(救いが取り消されること)をイメージしてしまいがちです。先週取り上げた、荒野で滅ぼされるという言葉のように、これは、平安を手にできないということをこのような表現で説明しています。あえて、このような厳しい言葉で説明されているのは、平安が手に入らないということは、それくらいつらいことだと認識してほしいからにほかなりません。決して、救いが取り消されるという意味ではありません。


御言葉に心を向けたなら、必ず罪が照らされます。そのとき、心をかたくなにしないで、罪を認め、悔い改めなさい、ということが述べられています。これが、平安を手にするために欠かせないことです。


そもそも、私たちが、罪を認めることに抵抗するのは、罰を恐れるからです。しかし、私たちは何も恐れる必要はありません。なぜなら、罪を認めても、罰は与えられないからです。神は、私たちを弁護してくださる方です。イエス様は、私たちを裁くために来られたのではありません。赦すために来られたのです。罪に気づいて言い表したら、イエス様が弁護して、悪からきよめ、罪の奴隷から助け出してくださいます。これを、赦しの恵みを受けると言います。これが平安そのものです。


『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。』(新約聖書 ヨハネ第一の手紙 1:8〜2:1)


3.最初の確信を終わりまで持ち続ける

『兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:12〜14)


私たちは、バプテスマを受けるときに、イエスは神であり、それを信じると告白して洗礼を受けました。これが最初の確信です。この確信を保つとは、どういう意味でしょうか。それは、神が「右」と言えば「右」、「左」と言えば「左」とするということです。つまり、神が絶対だと信じることなのです。もし、神が右と言ったことに対して、いや、左だと言うならば、それは、神より自分が偉いと言っていることになります。それは、絶対にしてはいけません。神に対してだけは、絶対につぶやいてはなりません。これを不信仰といいます。神に対してつぶやく思いが来たら、必死に悔い改めることです。これが、安息に入るために、絶対に必要なことです。


『「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 3:15〜19)


神は、私たちを救っておしまいではなく、安息に入れたいと思っておられます。それを示したのが、ヘブル3章ですが、それをさらに端的に言い表したのが、黙示録の以下の御言葉です。神は、私たちを救うだけでなく、私たちが罪を告白し、悔い改めることで、罪の奴隷から解放し、共に食事をするような、信頼関係を築きたいと言っておられます。


『わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。』(新約聖書 ヨハネの黙示録 3:19〜21)