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2012年1月8日礼拝メッセージ
『万物は御子によって造られた』
(新約聖書 ヘブル人への手紙 1章)

『神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました』(新約聖書 ヘブル人への手紙 1:1)


聖書は、異なる時代、異なる場所、異なる人物によって書かれた、多くの文書が一つに合わされたものです。それらの文書に、神の一貫したご意思が書かれており、全く矛盾がありません。すべてがつながっています。聖書を調べれば調べるほど、それはまことに不思議なことと言えます。


『この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。・・・その力あるみことばによって万物を保っておられます。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 1:2,3)


この世界を造られたのは、御子(イエス・キリスト)だと書かれています。そして、この世界は、その神の言葉によって保たれています。神の言葉によって世界が保たれているとは、次の三つの意味です。


1.宇宙、人、すべては、神の言葉によって造られた

神は、天地を創造されたとき、すべて、言葉によってそれらを造られました。

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。・・・すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:1〜3)

『初めに、神が天と地を創造した。・・・神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。』(旧約聖書 創世記 1章)



2.人は、神の言葉によって生きる者である

神の言葉によって、私たちのいのちは生きたものとなります。人は言葉によって動き、支えられ、生きています。神の言葉には、まことの喜びがあります。


3.世界は、神の言葉が指標となり動いている

人間が考えたイデオロギーは百年続くものがありません。必ず、衰退していきます。唯一、変わることない指標となっているものは、聖書です。例えば、一週間が七日であり、日曜日は休み。これは神の言われたとおりの日にちの仕組みです。今日では当たり前のようにできている、病院も、学校も、ボランティアも、全て聖書を基に造られました。基本的人権、民主主義なども全て聖書から発しています。


神の言葉によって世界が保たれているこの事実から、私たちは、一つの教訓を得ることができます。それは、すべての答えは聖書にあるということです。聖書の言葉に答えを見いだしている人はたくさんいます。クリスチャンでない人ですら、聖書は素晴らしいと言います。ならば、私たちクリスチャンは、それ以上に、聖書に答えを見いだせるはずです。必ず、聖書の中に答えはあります。何か心に留まる言葉があるはずです。祈って、それを信じ、受け止めていくとき、私たちの心に、神からの平安が与えられます。


『神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 1:5)


この御言葉から異端の人たちは、イエス・キリストは父なる神によって造られたと言います。しかしそれは違います。これは三位一体の父と子という役割を明確にしているだけであり、イエス・キリストは父なる神と等しい三位一体の神です。そのことが続きの御言葉で分かります。


『御子については、こう言われます。「@神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、A神よ。Bあなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 1:8,9)


上の御言葉の@とAの「神よ」は、御子を指しています。Bの「あなたの神」は、父なる神を指します。つまり、父なる神が、御子を「神よ」と呼んでおり、父もご自身を「神」と呼んでいることから、三位一体の神であることが分かります。


『これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 1:11)


世界の全てはいずれ滅びます。永遠なるものを信頼できて、私たちは初めて平安を手にします。しかし、私たちは、幸せを見えるものに依存しようとしてしまいます。


例えば、子どもに依存している人がいるとします。もちろん、本人はそんな意識はありません。親は、子どもを愛していると思い込んでいます。しかし、本人は気づかないだけで、親は子どもを、自分の期待に応える者に育てようとしています。そして、子どもの成長ぶりを通して、周りから立派な親だと言われるようとします。それが、安心につながります。子どもは子どもで、良い子を演じ、親や周囲にほめられることで安心を手にしようとします。両者の利害は一致し、お互いに頑張ります。


こうして、親は、自分の子どもの行動がいつも気になります。良い親という評判を失わないか、子どもの行動から目が離せなくなり、子どもという鎧の奴隷になってしまいます。子どもは子どもで、親の目がいつも気になります。それで、良い子という鎧の奴隷になってしまいます。互いの関係は、利用し合う奴隷関係になります。これは、神が言われる本来の関係ではありません。こんな関係は、いつまでも続きません。


親は、次第に、自分ができもしないことを子どもに要求するようになります。子どもは、親の期待に応えられるよう、それでも頑張ります。親の期待に応えられている間は、互いの関係は良好でいられますが、子どもは、自分のやりたいことが制限され、次第に疲れてきます。そして、ついに爆発し、ある子どもは、親に徹底して反抗するようになります。ある子どもは、家から逃げ出してしまいます。ある子どもは、閉じこもってしまいます。いずれにせよ、その事態は、親にしても子どもにしても、鎧が壊れる患難のときとなります。このとき、神に頼ることができれば、神はそれを益とされます。そうではなく、鎧を修復しようと、必死に相手を変えようとすれば、事態はさらに悪化します。


親は子どもに依存できなくなると、心の拠り所を神に置くようになります。ですから、子どもから安心を得ようと、子どもを利用することがなくなります。子どもを、子どもとして愛せるようになり、子どもが望む生き方を、応援できるようになります。奴隷生活から解放されるのです。子どもも砕かれると、心の拠り所を神に置くようになります。そうなれば、親の期待に応える生き方から解放され、親を、親として愛せるようになります。イエス様は、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(新約聖書 ルカの福音書 6:31)と言われましたが、そうした関係が生まれるのです。それは、今までにない心地よい関係です。神からの平安を通して愛するのだから、全く無理がなく、自然でいられます。こうした本来の関係を取り戻すことができるのです。


このように、私たちの幸せの基準をどこに置くのか、それによって、人間関係はまるで違ったものになります。自分が依存するものから手を放し、イエス様に幸せの根拠を置きましょうと言うと、見えるものを失うような感覚を持つ人がいます。それは大きな勘違いです。人ではなく、イエス様に幸せを求めるなら、見えるものを、本当の意味で自分のものとすることができます。自分の安心の材料としてではなく、本来の姿として手に入れるのです。逆に、自分の安心の材料にしようと、見えるものを握りしめるほど、実はそれを失ってしまっているのです。ですから、私たちは何も恐れずに、神が共におられることに幸せを見いだしていきましょう。


『自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。』(新約聖書 マタイの福音書 10:39)