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2011年12月25日クリスマス礼拝
『あなたは何者か』
(新約聖書 ルカの福音書 15章25〜32節)
私たち人類は、ずっと昔から、一つの課題について考えてきました。それは「自分は何者か」ということについてです。人は、自分が何者か分からなければ、どう生きていいのか分かりません。どこから来て、どこへ行くのか、何のために生きているのか、これが分からなければ、今をどのように生きていけばいいのか分からないからです。ですから、遙か昔から人は「自分は何者か」そのことについて考えてきました。


その中、人類が見つけた一つの答えは、人間は物質であるというものです。これを「唯物論」と言います。その考え方からすると、人間は単なる物質で、偶然出来たにすぎないものです。いのちには尊厳はなく、目的遂行のためには切り捨ててよいものとなります。この考えに則り、20世紀になると「共産主義国」が誕生しました。その一つに、ソビエト連邦がありましたが、2代目の指導者スターリンは、「粛清」の名の下に、ヒットラーよりも遙かに大勢の人を殺したと言われています。人はただの物質なので、不要な者は排除するというのが、彼の政策でした。これは、唯物論の思想が行き着く最悪のシナリオと言えます。このように、人類が何とか見つけ出した「唯物論」の考え方には、いのちの尊厳がありません。人は死んだらすべておしまい、消えてなくなるだけというのが、唯物論の結論です。


これに対し、イエス・キリストは、まるで反対のことを教えられました。人は神によって、物質と霊から造られました。霊の部分は、神のいのちである魂が宿っています。神は、一人一人のいのちに目的を与え、意味があって造られました。そして、死んでも、魂は永遠に生きるように造られています。肉体の死は通過しますが、魂は永遠に生きることを教えてくれました。ここに、人が探し求めていた答えがあります。


私たちは、これら二つの考えのどちらに立って生きていくべきでしょうか。


さて、「あなたは幸せですか」と問われたら、あなたはどう答えるでしょうか。もし、親から愛されているから幸せだ、仕事がうまくいっているから幸せだ、お金があるから幸せだ、と言うならば、あなたは幸せの基準を見えるものに置いています。見えるものを通して、幸せか否かを判断しています。そして何とか幸せになるために、自分が幸せになれると思うものを手に入れ、それにしがみついて生きています。


考えてみれば、人はみな、当たり前のように見えるものに幸せの基準を置いているでしょう。しかし、この発想は、先述した、物質が全てという見えるもので判断する唯物論的な考えなのです。その行き着くところは、言うまでもなく悲惨な生き様です。イエス様は、こうした見えるものに幸せの基準を置く発想は違うと言われました。幸せの基準は、見えるものにあるのではなく、神が共にいることにあると、放蕩息子のたとえの後半で話されました。


『ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』

すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』』(新約聖書 ルカの福音書 15:25〜32)



兄は、弟が父に優遇されているのを見て、嫉妬しました。父は、自分にはちっともいいことをしてくれないのに、好き放題やってきた弟にはこんなに良くしてずるい。兄は腹を立ててしまいましたが、父はそんな兄にこう言いました。「おまえはいつも私と一緒にいる。」と。いつも共にいることが幸せの基準だと教えられました。このたとえの父親は、言うまでもなく神を指しています。つまり、神が共にいることが幸せの基準なのです。 私たちも、兄の姿と同じではないでしょうか。見えるもので、自分が幸せか、不幸せかを判断していないでしょうか。人と自分を比べ、少しでも自分の方が良いと、幸せだと思い、また見えるものが悪いと不幸せだと思わないでしょうか。本当の幸せは、見えるものに左右されないと神は言われます。神が私たちと共におられることが幸せの根拠だからです。


神の心を最も悲しませる罪は、見えるものを手にして幸せになろうとすることです。神が共におられることが幸せなのに、そのことに気づかないことが神の心を悲しませます。神が共におられるから幸せだということに気づくこと、それがクリスマスの本当の意味です。