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2011年12月18日
『神からの祝福〜患難〜』

神の祝福は、つらさを喜び希望に変えるものです。ですから、人がどうしてつらくなるのか、それが分からなければ、神の祝福も見えてきません。つらさの原因が見えてくると、神が与えたい本当の祝福が見えてきます。


人が求めているものは、それぞれ違います。しかし、人が何かを欲するのは、それを手に入れることで平安を手に入れたいからです。人はみな、幸せや安心を手にしたいと思っています。それを得るためには、見えるものを手に入れなければならないと思っています。しかし、神も私たちに幸せや安心を与えたいと思っておられますが、人の想像するのとは、別の手段で与えられます。神が与える平安は、見えるものを与えることで得られるのではなくて、患難を通して得られます。


では患難とは何でしょう。患難とは、つらいと感じる出来事です。人それぞれつらいと感じることは違います。ある人にとっては、つらいと感じることも、ある人にとっては、つらいと感じません。その人にとってつらい出来事であれば、その内容がどんなものであってもその人にとっては患難になります。


ではどうしてつらさは発生するのでしょうか。人がつらさを感じる仕組みを知るためには、罪について理解する必要があります。なぜなら人のつらさは罪から発生するからです。私たちはアダムとエバが罪を犯した結果、霊的な死と肉体の死を抱えた状態で生まれてきました。


肉体の死は言うまでもなく、死の「恐れ」をもたらしました。人は、死の恐れから必死に見えるものにしがみつくしかありませんでした。金銭、車、家、そうした見えるものにしがみつくことで、安心を手にするしかなかったのです。それが、富をむさぼる生き方、「富の惑わし」を生むようになりました。


霊的な死は、神から切り離されたことから、自分が何者であり、何のために生きているのかがまるで分からない「不安」をもたらしました。人は、死の不安から必死に人にしがみつくしかありませんでした。人との関わりで、自分の生きる意味を見いだすしかありませんでした。そこから、安心を手にするしかなかったのです。そのためには、良い行い、勉強、仕事、そうしたことを頑張り、人から良く思われる必要があります。これが、「この世の心づかい」を生みました。人はみな、死を抱えて生きているので、この死の恐怖から罪を犯してしまいます。


私たちがつらくなるのは、「この世の心づかい」や「富の惑わし」によってしがみついたものが役に立たなくなるときに生じます。私たちは、クリスチャンになったからといって、見えるものにしがみつく生き方が変わったわけではありません。神にしがみついて平安を手にしているかのように思いますが、実は、私たちは見えるものにしがみついて平安を手にしているのです。


イエス様の弟子のペテロを見れば、そのことがよく分かります。彼は、イエス様の弟子だということで、安心感を得ていました。当時、イエス様は、人々から慕われていました。ですから、イエス様の弟子だというだけで、人々から脚光を浴びました。彼は、人からよく思われるという鎧にしがみつき、平安を得ていましたが、そのことにまるで気づいていませんでした。しかし、イエス様が十字架にかかられ、人々からののしられ、弟子のいのちも危うい状況に追い込まれたとき、ペテロはどうしようもなくつらい心境になりました。安心を手にするために握りしめていた「人からの良い評判」という鎧が役に立たなくなったときに、つらくてどうしようもなくなったのです。彼は、自分が見えるものを頼っていたことに気づきました。そして、初めて、本当の意味でイエス様にしがみつくことができました。


このように、死の恐怖から握っているもの、それが壊れ始めると、人はつらさを覚えます。ここにつらさのメカニズムがあります。もう少し身近な例で言えば、仕事に依存し、そこから幸せを感じようとしている人は、仕事がうまくいかなくなると不安になります。


では、患難にぶつかったら私たちはどのような選択をすることができるのでしょうか。それは、人には二つの選択肢があります。


一つは、壊れ始めた鎧を修復しようとする選択です。たとえば、人間関係の場合、腹を立てるという選択があります。なぜ腹を立てるかというと、相手が屈服して、自分の言うとおりに動くようになることで、鎧を元どおりにしようとするからです。怒りはこうして発生します。こうした選択を「誘惑」に陥ると言います。


もう一つは、私は神ではなくて、見えるものにしがみついて、安心を手にしようとしていました、と神に悔い改める選択です。「神様、どうか私をゆるしてください。見えるものにすがる偶像礼拝をしていたことを許してください」という祈りをすることです。この選択は、「試練」を選ぶことです。試練とは、信仰が試されることで、それは、神に心を向けようとすることです。聖書はそちらを選択するように教えています。


『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 10:13)


聖書に書かれている信仰の人と言われる人たちは、見えるところの問題が解決することに関係なく、喜びを得ました。それは、神を信頼するところからくる喜びです。彼らは、神様が共にいてくださることからくる喜びを得ました。


『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)


クリスチャンも多くのものにしがみついているということを初めて解析したのが、パウロです。パウロは、私は神を愛したい。しかし、自分の中に、それを邪魔する全く別な自分の姿があった、ということに気づきました。そんな自分を見たときに、自分をみじめだと言いました。彼がそのことに気づいたのは、彼自身、色んな患難にぶつかったからです。パウロには、彼を守る鎧がたくさんありました。ローマ市民権という特権があり、学歴があり、聖書に通じており、彼には誇るものが山ほどありました。しかし、彼は死の危険にさらされ、頼りにしていた鎧が次から次へと役に立たなくなりました。彼は、何とか健康な体を手にすることで安心を得ようとし、彼は持病が癒されるように熱心に祈りました。ところが、健康な体は与えられませんでした。ついに、彼には、何一つ誇るものがなくなってしまいました。そこに見えてきたのは、みじめな自分です。必死に何かにしがみつこうとしている弱い姿が見えてきました。彼はそのときに神の恵みに触れました。自分の鎧が全部壊されたときに、初めて気づきました。


『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:9)


神が私たちに与えたい恵みは、神に拠り頼むことで得られる平安なのです。


『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:3〜4)