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2011年11月27日
『何でも願ってみなさい』
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5章14〜21節)
『何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:14〜15)


前節までは、兄弟を愛するとかそういったことが書いてあったのに、唐突さを感じるかもしれませんが、もちろん意味がありこのような流れで御言葉は書かれています。神は、私たちが、神を愛するように造られました。神を愛するとは、神の言葉を信頼することです。私たちはそのために信仰を頂いています。信仰には、ただイエス・キリストを神だと信じるだけではなく、神を信頼する心を育てる働きがあります。この御言葉は、その信頼を育てるための信仰の訓練が書かれています。神に求めることは、神への信頼を育むためのステップなのです。


神は、私たちの願うことに必ず答えてくださいます。私たちは、神が与えてくださった信仰によって、神の言葉を信頼し、平安を手にすることができます。神は必ず助けてくださると期待することができます。何かを得て平安になるのではなく、神を信頼できるから平安になるのです。また、その平安は幻想では終わりません。なぜなら、平安が与えられるがゆえに、願いは叶えられたと信じて実際に行動に移していけるからです。現実の問題が平安の中で解決へと導かれます。


ただし、私たちの願うことが、神の御心でなければ叶えられません。私たちは、自分の願っていることが御心なのか、御心でないのか分かりません。ですから、神は、自分の求めることが御心かどうか深く考えないで、まずは神に求めてほしいと言われます。神は、御心でなければ、必ず軌道修正をしてくださいます。御心でなければ、必ず止めてくださいます。神に求めるならば、止められたときに、必ず止められたことに気づきます。それは、神を信頼しているからです。しかし、止められたときに、つぶやいてしまうと、神の軌道修正が全く見えなってしまいます。ですから、どんなときもつぶやいてはいけません。


『だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:16〜17)


これも、前の節との関わりがよく見えませんが、内容がつながっています。これは、先の御言葉に、「御心に叶った願いをするなら」とありましたが、具体的な御心に叶った願いの例を挙げているのです。罪を犯している兄弟のためにとりなすことは、100%御心なので、それを祈ることからやってみなさい、と言われています。罪を犯している兄弟とは、教会を離れてしまう兄弟姉妹たちのことを指します。また、神を信じない罪Aを犯している人たち(救われていない人)のために、祈ってごらんなさいと言われています。


また、死に至る罪とは、イエス・キリストを否定する罪を指します。例えば、異端の人たちは、イエス・キリストを真っ向から否定します。聖書はこれを、聖霊を汚す罪と言いますが、この罪については、願うようにとは言いません、とあります。では、その罪については求めてはいけないのかと思うかもしれませんが、そうではありません。それは、求めてもいいけれど、但し、その祈りが聞かれることは非常に難しいという意味です。イエスを神ではないと否定する者の心は、かたくなです。だから、困難だという現実を聖書は示しています。いずれにしても、罪人のために祈ることは、神の御心です。神は人を救い、信頼関係を築きたいと願っておられます。そのために、私たちに御心の叶った祈りをするように励ましています。あきらめないで、家族のため、友達のために祈ってほしいと言っています。


『神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:18)


この御言葉から、救われたことの証しは、その人がきよめられることだと考える人たちがいますが、それは全くもって誤解です。ここでいう罪とは、「罪A」(イエス・キリストを神だと信じない)を指します。つまり、神を一度信じて救われた者は、決してイエスを神でないと否定することはできないということを説明しているのです。決して「罪B」(神を愛さない罪、御言葉を実行できない罪)のことではありません。このように、罪には二つあり、私はそれを、便宜上、罪Aと罪Bと定義していますが、どちらの罪を指して聖書が説明しているのか文脈から読み取らないと、聖書の教えがおかしな方向へ行ってしまいます。


『しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:20)


私たちは、真実な方を知る理解力を頂いているので、神を信じることができるのです。ですから、心配しなくても、罪Aを犯すことはできません。イエスを神でないと否定できないのです。それよりも、私たちが警戒しなければいけないのは、見えるものにしがみつき、神との関係を築かせない罪Bです。


『子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:21)


偶像というのは、何か像を拝むことを指すのではありません。私たちがしがみついた見えるものを指します。ですから、神にすがらず、見えるものにしがみつく罪Bに気づいたなら、イエス様にその罪を差し出すのです。神は、罪Bを洗うことによって、人が神を信頼する者になれるようにいやしてくださいます。見えるものにしがみつく罪にどこまで気づき、それを神に差し出していけるか、それによって私たちと神との信頼関係の深さが決まってくるのです。