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2011年11月20日
『神の命令は重荷とはならない』
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5章1〜13節)
『イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:1,2)


イエスとは、この地上での神の名前です。当時はまだ、人々は、誰がキリストなのか待ち望んでいた時代で、キリスト(救い主)は一般名詞として使われていました。ところが、人々は待ち望んでいた救い主がイエス様だということに気づき、イエス・キリストという固有名詞ができました。イエス=救い主、という意味です。このことを信じられる者は神によって生まれたと聖書は教えています。(バプテスマを受ける条件は、イエス・キリストを信じることだけです。)神によって生まれた者(救われた者)は、兄弟姉妹を愛するようになると書かれています。


『神を愛しなさいという命令は最も大切です。神を愛するというなら、兄弟を愛するということです。目に見える兄弟を愛せない者は、目に見えない神も愛せないとあります。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:2)

『神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:3)


神の命令は神を愛することで、それは重荷にはなりません。しかし、実際の私たちはどうでしょうか。神の命令が重荷となっていないでしょうか。それは、実行できないからです。神の命令が実行できないことを罪といいます。「罪とは律法に逆らうことなのです。」(Tヨハネ3:4)。先の御言葉に、神から生まれた者は、兄弟を愛するようになると書いてありましたが、私たちはそれができなくて苦しんでいます。私たちにとって、神の命令は正直重荷なのです。そうした実際を見ると、自分は本当に神から生まれた者なのか、自分は救われていないのではないかと思うでしょう。あるいは、聖書が嘘を言っているのかと思うかもしれません。


しかし、聖書を読むときに、注意しなければならないのは、聖書は、私たちのあるべき本来の姿を書いているということです。今できるかできないかが書かれているのではありません。私たちの本来の姿は、神の命令が重荷にならない姿です。良い行いが自然にできるように造られていました。神につながれていのちを回復した私たちは、本来の生き方を取り戻せるはずですが、実際にはそれができません。私たちはみな、兄弟を愛しなさいという命令が実行できないことが重荷になっているのです。では、どうすればいいのでしょうか。


『なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:4,5)


神によって生まれた者(イエスキリストを信じた者)は、世に勝つから、神の命令が重荷になりません、ということが書かれています。世というのは、「死が支配する世界」=「死」を指します。人は世(死)が原因で罪を犯すようになってしまいました。死がもたらすものは、恐怖です。死の恐怖は、私たちを見えるものにしがみつかせます。そして、私たちはそこから生まれる様々な苦い思いに苦しみ、兄弟を愛することができなくなっています。


こうした罪の原因を、この御言葉は、私たちの本性に問題があるのではなく、死に原因があると述べています。なぜなら、罪が私たちの本性から出たものなら、「神から生まれた者は、自らに勝つからです」と書かれてあるはずです。しかし、聖書は、「神から生まれた者は、世(死)に勝つからです。」と書いています。一貫して、世(死)が人に罪を犯させていることを説明しているのです。つまり、この御言葉も、罪は病気だということを私たちに教えているのです。


私たちが、イエス・キリストを信じることができること、これがもう死に勝利した証しです。私たちは自分を見ると、死に勝利したようには思えないかもしれません。しかし必ず死に勝利するときがきます。もうすでに、それを私たちは信仰によって手にしています。


『愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:2)


私たちの体は、やがて死なない体にかえられます。私たちは、滅びゆく体に染みついた罪に苦しめられていますが、今から本来の姿を取り戻して生きていけるように、神は恵みを用意してくださっています。罪を告白し、赦されるという経験によって、私たちは洗われ、本来の姿を取り戻させてくださいます。


『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)


さて、続きの御言葉を見ていきましょう。

『このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:6〜8)


イエスがキリストだと証しするものが三つあります。イエスがバプテスマを受けられたこと、血(十字架)によって恵みがもたらされたこと、そしてそれらを御霊が証ししておられることです。


『もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:9,10)


当時、イエス様のバプテスマを見て信じた人、イエス様の十字架の復活を見て信じた人もいます。私たちの場合は、御霊が働きかけて信じることができるようになりました。三つの手段を使って、神はイエスがキリストで間違いないと証しされ、人々がイエス様を信じられるように助けてくださいます。私たちは、人の言葉を容易に信じます。ならば、神の言葉を信じるのは当然ではないでしょうか。神の言葉を信じないなら、神は嘘つきだと言っているのと同じだと聖書は教えています。


『そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:11,12)

神がキリストについて証されるのは、永遠のいのちがイエス・キリストにしかないからです。だから、神は証しされるのです。


『私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:13)


ヨハネ第1の手紙では、繰り返し、あなたがたは救われていて、永遠のいのちをもっている。死に勝つから心配しなくても大丈夫だと励ましています。イエス様を信じるということが、どれだけ素晴らしいことなのか知ってほしいということです。