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2011年11月13日
『恐れには刑罰が伴う』
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4章16〜21節)
『・・・愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。・・・』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:16〜21)


愛するというのは、「恐れ」が伴わないものです。私たちが考える愛は、人を好きになるといった愛ですが、それは好きになればなるほど、相手の反応が気になり、恐れがやってきます。ですから聖書が教える愛は、そういう愛ではありません。


「恐れ」の究極の原因は、「死」にあります。人は「死」を生まれながらに背負って生きています。ですから人は常に恐れという刑罰をこの身に帯びています。私たちはどのような刑罰を受けているのでしょうか。


そのことを知るために、こういう想像をしてください。地上500メートルのビルとビルの間に幅が30センチの板を一枚掛けます。あなたはそこの上に立っています。どんな心境になりますか。もし、そんな高いところに置かれたら、なるべく足元を見ないように、必死に板にしがみつかないでしょうか。なぜそうするのでしょうか。恐怖心があるからです。私たちが生きている状況を冷静に考えると、地上500メートルくらい上にかけられた板の上に立っているのと同じ状況です。なぜなら、私たちは、いつ死ぬか分かりません。たとえあらゆる難を逃れたとしても、人はいつか必ず死を迎えます。しかし、私たちは、高いところに掛けられた板の上ではなく、床の上に置かれた板に立っている気分しかありません。本当は、いつ死ぬかわからない危険な状態なのに、大丈夫だと思い込んでいるのです。


なぜ大丈夫だと思い込んでしまっているかといえば、見えるものにしがみついて安心を得ているからです。人間は見たくないものは見ません。聞きたくないものは聞きません。人は死ぬという現実を直視したくないものです。ですから、潜在意識の中で、必死に何かにしがみついて安心を得、死をごまかそうとする肉の価値観が働きます。この世界には、しがみつけるものは三つしかありません。一つは人。人から良く思われることで、安心を得ようとします。もう一つは富。富にしがみついて安心を得ようとします。そして、もう一つは肉の欲。体の欲を満たすことで安心を得ようとします。人は、それらにしがみついて大丈夫だと思い込んでいるのです。しかし、いくら本人が大丈夫だと思っても、現状は何も変わっていません。私たちの置かれた現状は、地上500メートルで死に怯えているのと同じです。


こうした錯覚の中で、人はいつか死を迎えます。見えるものに必死にしがみつきながら、死を迎えるのです。すると何が起きるでしょう。

イエス様は、そのことを金持ちのたとえ(ルカ12:16〜21)で教えられました。ある金持ちの畑が豊作で、金持ちはこう思いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と。しかし、彼は、その日のうちに死んでしまったという話です。

金持ちは、富にしがみつくことで大丈夫だと思い込みました。自分の置かれた状態から目をそらしていたのです。もしこの金持ちが、自分の置かれた現状に気づけば、富ではなく、神にしがみついたでしょう。しかし、死の恐怖は、見えるものや人にしがみつかせて、自分の置かれている状況を隠します。そして、金持ちは永遠のいのちという最も大切なものを手にすることができませんでした。これが恐れに伴う刑罰です。


では、クリスチャンになれば、もう刑罰がないのかというとそうではありません。見えるもので安心を得て、大丈夫だと思い込んでいると、クリスチャンも失うものがあります。それは、神への信頼です。そのことをイエス様は種蒔きのたとえでこう言われました。


『・・・また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。』(新約聖書 マタイの福音書 13:18〜23)


死の恐怖から、人にしがみつく「この世の心づかい」と、富にしがみつく「富の惑わし」が生まれました。人から良く思われたいという思いと、少しでも見えるものを手にしたいという思いは、御言葉をふさぎ、神に頼るよりも、見えるものに頼ることを求めさせてしまいます。結果、神への信頼という平安が宿らなくなってしまいます。これが恐れに伴う刑罰です。クリスチャンにとってこれ以上の刑罰はありません。人は、こうした苦しみから逃れようと、人や状況をどうにかしようとします。しかし、それは一時の効果があっても、根本的な解決にはなりません。私たちの抱える問題の根本的解決は、死を解決することよりほかにありません。死を解決するもの、それは十字架の愛です。十字架の愛は、恐れを締め出す、すなわち死を解決する全き愛です。死は、悪魔のしわざで私たちの中に持ち込まれたものです。そのしわざを悪魔ごと滅ぼされたのが、キリストの十字架です。


『罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:8)


『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14〜15)


聖書は、死の恐怖から必死に何かにしがみついて生きている私たちを、罪の奴隷という言い方をしています。イエス様の十字架は、奴隷状態にある私たちを解放してくださいました。しかし、それで完了ではありません。死を滅ぼすだけでは不十分です。なぜなら、人々は、死が解決されているにもかかわらず、見えるものにしがみついて生きているからです。ですから、神は、回復作業にも対策をとられました。それは、ちょうど、死というウィルスは根絶されたけれども、ウィルスで汚染され傷ついた体を回復する作業が残っているというようなものです。神は、見えるものにしがみつかせる肉の価値観を壊し、私たちの価値観を新しくする回復作業をしてくださいます。これにあたり、神は私たちのうわべと私たちの価値を結びつけない経験をさせることで、新しい価値観を覚えさせ、心の回復作業を進めてくださいます。


そのために、神はこう言われます。

『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:8〜9)


これが、神が私たちを回復作業へと導くために、私たちにするように言われていることです。私たちが罪を言い表わせば、神はそれを赦し、私たちを悪からきよめてくださいます。そうすることで、見えるもので安心を得ようとする価値観が崩壊されていきます。それが罪が取り除かれていくということの意味です。何か立派なことをしたら罪が赦されるのではなく、ただ罪を神に言い表すだけで赦されるという愛を経験するのですから、うわべを良くしなければ愛されないという肉の価値観は壊れていきます。見えるものにしがみつくのではなく、神にしがみつくようになります。すると、神からの平安がきて、人は本来の生き方ができるようになります。それがヨハネ第一の手紙で繰り返し言われている、人を愛する生き方です。