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2011年11月6日 礼拝メッセージ
愛する理由
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4章1〜15節)
『愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:1〜3)


キリスト教という名の元で、イエス・キリストが救い主であることを否定する宗教がたくさんあります。代表的な異端には、ものみの塔、統一教会、モルモン教などがあります。彼らの共通していることは、イエス様を救い主としては捉えないことです。「イエス・キリスト」の中黒は、イエス様は救い主であると説明した書き方です。よく富士山の登り口はたくさんあるけれど、辿りつくところは一緒ではないか、というたとえを用い、宗教も同じだとする考えがありますが、それは詭弁です。どこから登っても同じところに辿りつくことはありません。真理は一つ、排他性があるから真理なのです。救い主が誰なのか、これが最も重要なのです。


『愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:7)


私たちは本来互いに愛し合う者として造られています。とっさのときに人が人を助ける行動を「愛他行動」と言いますが、本来は常にそのように助け合う者として生きるようになっています。やがて、私たちが肉体の拘束から解き放たれ、神の国に行くとき、完全に愛し合うことができるようになります。ですから、今からそういう生き方をしなさいと神は言われます。具体的に愛することとして、次の三つが挙げられます。


1.さばかない

注意することと裁くことは別です。裁くというのは、「だからお前はダメなやつだ」という結論を導き出すことです。それを口にするしないにかかわらず、相手をダメな者だと判断したら、裁いているのです。私たちは、注意をしているだけだ裁いていない、とよく言いますが、必ずと言っていいほど、相手をダメだと決めつけてしまいます。それを裁くと言います。聖書は、行いで、人の善悪、価値を判断してはいけないと言っています。裁くくらいなら、人に何も言わない方がましです。裁いたことは、全て自分に返ってきます。例えば、親が子どもの前で裁き合うと、必ず子どもは親を裁くようになります。特に、子どもの前で妻が夫を裁くことは避けなければなりません。なぜなら、妻が夫を裁くと、神が与えた秩序は崩壊され、やがて子どもは親にも、神にも盾をつくようになるからです。裁くということは、本当に危険なものなのです。


2.見返りを求めない

私たちは愛するとき相手に見返りを求めます。あなたのためなら何でもしたいと言って何かをしますが、結局そうすることで、自分が愛されたいと思っています。ですから自分の思いどおりにならないと、人は腹を立てます。それは愛すると言いながら、自分の為にやっている証拠です。愛ではありません。見返りを求めない愛こそ、兄弟を愛するために必要な愛です。


3.良い者として接する

人と接するとき、相手を良い者として接することです。教育とは、良い者に良い者であると気づかせることです。人は自分が良い者でないと思っているがために、良い者でない行動を取ってしまいます。そこからあらゆる問題が発せられます。自分が愛されていないと思うと、愛されようとして生きてしまい、人から見返りがないと、人をさばいてしまいます。自分をダメな者だと思えば、人のこともダメな者だと思ってしまいます。ですから、神が人をご覧になるように、私たちも人を良い者と見て接すること、それが愛なのです。


『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:9,10)


神は私たちが良い者であり、愛すべき者だということを示すために、十字架に掛かられました。よく考えれば、神は、わざわざ十字架にかかって私たちの身代わりにならなくても、罪の罰を帳消しにすることができます。でも、あえて十字架に掛かられたのは、私たちに愛を伝えるためでした。イエス様が十字架にかかってくださった姿を見れば、私たちも自分がどれほど愛されているか理解できます。ですから、イエス様は十字架にかかられました。


『神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:13)


私たちは神に愛され、神が共におられます。その証しとして、イエス・キリストを信じることができます(Tコリント12:3)。なぜ御霊が神は共におられるということを示せるのでしょうか。それは、御霊が、私たちを罪に気づかせるからです。罪とは、本来の生き方と違う生き方をすることです。罪に気づき、愛されていると気づけば、人は、神が共におられ、愛してくださっていることに気づけるようになります。だから、御霊の助けなくして、私たちは神が共におられるということを知ることはできないのです。