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2011年10月30日 礼拝メッセージ
兄弟を愛するとは
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3章16〜23節)
『キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:16)


私たちは誰かのためにいのちを犠牲にするということができるでしょうか。とてもできないように思います。聖書の教えは、人が造られたときの姿が書かれています。ですから、本来人は、聖書の戒めがすべて実行できる存在でした。それが私たちの本来の姿です。この姿は、私たちから失われてしまったのではなく、私たちの中に眠っています。


それを証明する出来事があります。それは危急の時に人が人を助けるという行動です。東日本大震災では、多くの方が津波に呑み込まれて亡くなりました。その中には、近所の寝たきりのお年寄りや身寄りのない方を助けようとした人たちが、自らもいのちを落としたというケースが多々あったそうです。このように人が人を助けることを「愛他行動」と言います。普段、私たちは人のために命を犠牲にすることなどできないと考えていますが、とっさのときには、見ず知らずの人のためにでも命を犠牲にしてしまうのです。これが人本来の姿です。


こうした人本来の姿を隠しているものを、罪といいます。聖書は、罪とは顔に掛けられたおおいのようだと言っています。これを取り除いていくと、自分自身の本当の姿が見えてくるようになります。イエス様は、その罪を取り除いていくために、十字架にかかられました。私たちは、自分はダメなものだと思い込んでいますが、その中に隠された人本来の姿は、「キリストのいのち」なのです。神は、人にいのちの息を吹き込み、人は、神のからだの一部分として造られているからです。


『世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:17〜20)


さて、ここでは、行いと真実をもって兄弟を愛するようにということが書かれています。こうした御言葉から、愛とは物理的な助けをすることだと思われがちです。確かにこれも愛の一面ですが、聖書は、一つの真理を様々な側面から説明しています。他の側面から、愛するということを見るとこうなります。


『また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:3〜7)


3節を見ると、いくら物理的に助けることをしたところで、愛がなければ全く意味がないと教えています。つまり、物理的な助けと愛とは、別なものとされているのです。Tヨハネでは行いをもって愛することが愛と言われ、Tコリントでは、それは愛ではないと言っています。では、聖書が教える愛とは、一体何を指すのでしょう。 Tコリントの御言葉を見ると、4〜6節は、人に対する心の持ち様が書かれており、7節は、神に対する心の持ち様が書かれていますが、愛とは、この両方が一体となることです。具体的に考えてみましょう。人は、何か良いことをするとき、人から良く思われようと思ってそれをします。しかし、それは見返りを求めて良いことをしているにすぎず、愛ではありません。人が見返りを求めるのは、それを得ることで、心に平安が欲しいからです。見返りを求めて何かをするとき、人は、ねたんだり、高慢になったり、怒ったりします。ところが、神への信頼が心にあれば、心には平安があります。ですから、見返りを求めることはなくなり、真の意味で、兄弟に寛容に接し、親切にすることができるのです。愛とは、神を信頼することなくして、成立しないものなのです。

では、具体的に、兄弟を愛するとは何でしょう。


『あなたがたのばあいも同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 14:12)


兄弟を愛するとは、互いの徳を高め、教会の徳を高めるよう求めることです。神への信頼が高まっていくような交わりをしなければ、その交わりは意味がありません。なぜ互いに祈るのかといえば、神に信頼するためです。これが、兄弟の愛の交わりです。物理的な助けをする場合も、その目的は、互いにキリストに信頼できるようになっていくためです。兄弟の交わりは、ときとして、罪を指摘する必要がある場合もあります。


『あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 5:1,2)


お互いに分かっていながら、罪を見て見ぬふりをすることは愛ではありません。この御言葉は、兄弟が罪を犯しているときに、誰も注意しなかったのかと戒められています。兄弟を愛するとは、ときとして、言いたくないことも言わなければならない場合があります。それは、互いが赦し合い、神に近づくようになるためです。


では、未信者に対して兄弟を愛を示すというのはどういうことでしょうか。

『弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。』(新約聖書 コリント人への 手紙第一 9:22)


その人が救われることを願い、その人に合わせて交わりをすることです。愛するというのは、神を信じ救われ天国に行ってほしいと願うことです。どんなに良い関係を築き、自分のことを良く思ってもらっても、相手が天国に行くことを願っていなければ、本当に愛していると言えるのでしょうか。


では、Tヨハネに戻りましょう。

『愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:21〜23)


神の命令を守って、神に喜ばれることを行っているならば、求めるものは、何でも神からいただけるとあります。何でもいただくことができるとあると、人はみなあれが欲しい、これが欲しいという願いに神が答えてくださるとイメージします。私たちは、自分たちが欲しているものは、見えるものだと思っていますが、本当は自分が何を欲しているのか知らないのです。人はみな、「平安」を求めています。神の命令を守っていくならば、平安が与えられるということがここには書かれています。では、なぜ、神の命令を守ると、平安が与えられるのでしょうか。そのことを考えてみましょう。


神の命令は、大きく分けて二つに分けられることがわかります。神の命令とは、イエス・キリストを信じることと、神を愛すること(人は、キリストのからだの一部なので、人を愛するとは神を愛すること)の二つです。そして、神の命令(律法)に背くことが罪です。


『罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:4)


そして、これに背くことが罪です。それぞれに違反すると罪に定められます。クリスチャンは、すでにイエス・キリストを信じるか信じないかという命令に対してはクリアーしているので、こちらを犯す罪A(便宜上そう呼びます。)に問われることはありません。罪Aに関して、私たちは裁かれることは決してありません。私たちの課題は、神を愛せない罪Bです。しかし、罪Bに対しても、罰はもうありません。神が十字架で私たちの罪の罰を代わりに受けてくださったからです。ですから、罪Bを犯したからと言って、天国に行けなくなるわけではありません。しかし、罪Bを放置していると、私たちはいつまでも罪の汚れを自分に付着させているので、本来の自分の姿が見えず、つらいままです。神の御心は、少しでも罪Bを取り除いて、人が本来の姿に気づくことにあります。


では、どうやって罪を取り除くのでしょうか。

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)


繰り返し、この御言葉を取り上げていますが、罪を取り除く方法は、これしかありません。どんなに良いことをしても、罪が取り除かれることはありません。神に罪を告白すれば、神が取り除いてくださる、ただそれだけです。私たちは、日頃、自分に付着した罪の泥を見て、それが自分の本来の姿だと思い、自分をダメな者だと思っています。しかし、神は、泥を取り除き、その下に隠れているダイヤモンドの姿に気づかせたいと思っています。神は私たちに「高価で尊い」と語られましたが、それは神が気安めで語られた、慰めでも励ましでもありません。単なる事実を語ったものです。私たちは、キリストの体の一部として、神のいのちを共有しているのですから、当然高価で尊いのです。こうして、罪の泥が取り除かれていくことで、私たちは自分が本当に高価で尊いということに気づいていくので、「平安」を手にすることができるのです。そのためには、神の命令を守り、罪Bに気づき、その汚れを取ってもらうことです。