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2011年10月23日 礼拝メッセージ
人の本来の姿
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3章1〜15節)
『私たちが神の子どもと呼ばれるために、・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:1,2)


イエス・キリストを信じて救われた私たちは、すでに神の子どもです。神と共に生き、もう神の国に入れられています。ヨハネ第一の手紙では、このように繰り返し、救いの確認がされています。それは、クリスチャンがあまりにも、自分は救われていないのではないかと心配してしまうからです。私たちは、確かに神に喜ばれないことをしてしまいます。救われたのに、罪を犯し続けてしまいます。ですから、自分はダメな者だと思い、救われていないのではないかと心配するのです。しかし、それは、私たちの肉の部分を見てそう思っているのであって、私たちの中は完全です。私たちは将来必ずキリストに似た者に変えられます。私たちの本来の姿は、神を愛し、人を愛する姿です。肉体の制限を受けなくなる将来、私たちは、自分の本当の姿を知るでしょう。


『キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:6)

『子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:8)

『だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:9)



6節や9節を読むと、自分は罪を犯してしまうので、救われていないのではないかと不安になる人がいます。さらに、8節には、罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者だと書かれているので、自分は悪魔から出ているのだと落ち込んでしまうかもしれません。しかし、ここで語られているのは、そういうことではありません。


6節や9節は神が人を造られた状態が書かれています。人はみな良い者として造られ、罪が犯せない者として造られました。8節の罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者ですとは、罪は悪魔によって持ち込まれたことを説明しています。人が罪を犯してしまうのは、悪魔のしわざによるのです。ですからキリストは悪魔によってもたらされた罪を取り除く為にこの世に来られました。そして悪魔のしわざを打ち壊されました。私たちは、肉体の死を経験するため、死の恐怖心から様々な罪を犯してしまいますが、死後、私たちは朽ちない新しい体に変えられ、そのときには私たちが苦しんでいる一切の罪から解放されます。そのことが分かっているのですから、今からそのような生き方をしましょう、というのがここで書かれている趣旨です。


しかし、悪魔によって罪がもたらされた、人が罪を犯してしまったのは、悪魔のしわざだという話をすると、こう反論する人たちが出てきます。人が罪を犯すことができたのは、もともと人の中にあった欲が目覚めてのことだとする説です。これは、今の感覚の私たちには納得のいく話ですが、人が欲に支配されてしまうのは、不足があるからです。アダムとエバは、何の不足もない中で生きていました。神と共に生き、善しか行えない彼らは、満ち足りていました。何かに憧れたり、あれが欲しいと思ったりするのは、不足を感じるゆえです。ですから、彼らの中の欲が罪を犯させたということはあり得ません。


また、彼らには、善と悪を選択する自由意志があってのことだとする人たちがいます。始めから、彼らの中に悪を選ぶ能力があったとすると、キリストが罪を取り除くというのは、人のそうした意志を取り除くことになり、人自体を滅ぼすことになり、聖書に矛盾が生じます。キリストは、私たちを救うために来られたのに、私たちを滅ぼしに来たとなると、聖書全体を書き換えなければなりません。この説を否定する理由として、もう一つ言うならば、エバをだました悪魔(蛇)自身が「この実を食べれば、善悪を知るようになる」とエバを誘惑したことです。蛇の証言から、彼らのうちにもともと善と悪が存在していなかったことが明らかです。


では、なぜアダムとエバは実を食べてしまったのでしょうか。それは、悪魔にだまされたのです。エバは、良いことしかできない存在で、当然誰かを疑うという心などありませんでした。素直な者をだますのは簡単です。蛇は、エバの素直さを利用して、良いことを言い、だましたのです。ですから、エバはだまされて実を食べさせられてしまったと考えるのが、最も素直な聖書の読み方です。神が私たちの罪を見て、病気だと言われるのはそのためです。罪とは、良い者にあとから侵入してきたものであり、私たちの本質とは全く関係ありません。私たちの本質は、今も昔も全く変わっておらず、良き者です。ただ罪の泥で汚れている状態です。泥をとれば、中の本質が良い者だということがはっきり分かります。


『そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:10〜15)


さてここでは、キリストに似た者として生きていくために、その具体的な指示として、兄弟を愛することをやってごらんなさいと言われています。兄弟とは家族、友達、全ての人を指しますが、まずは身近な人から愛していくといいでしょう。するとどうなるでしょう。私たちは人を愛そうと思っても、愛せない自分に気がつきます。愛そうとしても兄弟を裁き、憎んでしまう自分に出会います。そうした自分に出会ったなら、聖書は神にその罪を言い表しなさいと言われています。


『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)


神の御前に、自分の罪を言い表すなら、神はその罪を赦し、私たちを弁護してくださいます。神の愛は罪が赦されるときに分かるものです。ですから、自分の罪が分からなければ、神の愛を知ることはできません。 聖書は、全ての人が神の愛を受け取れるよう、兄弟を憎む者は、人殺しだと教えています。それは、罪の正体に気づかせるためです。世の中では、被害の大きさで、犯した罪の大小を計りますが、神の罪の判断は全く異なります。神は、私たちの心が、神以外のものに向けられていることを罪と判断されます。たとえ、兄弟を憎むだけで実害を及ぼさない思いでも、兄弟を憎んでいるときは心が神に向いていません。殺人をするときと同じだと言っています。兄弟を憎むときも、兄弟を殺すときも、心は兄弟に向けられてしまっています。神はそれを罪だと言われているのです。神が罪を判断するのは、神に心を向いているかどうか、その一点に掛かっています。ですから、誰も自分は罪を犯していないなどと言えないのです。とにかく、心が神に向いていないことに気づき、神に悔い改めるように言っておられます。


兄弟を愛そうとすると、自分の罪に気づき、悔い改めます。神に罪を赦していただくと、神に愛されていることが分かり、神に心が向くようになります。それが神への信頼として増し加えられていきます。神への信頼、それが最期に残るものであり、私たちの唯一の宝物です。神は、その宝を手に入れさせるために、兄弟を愛し、罪に気づきなさいと言われたのです。