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2011年10月16日 礼拝メッセージ
信頼こそ宝
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2章18〜29節)
『小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:18)


「小さい者たちよ」とは、信仰に入りたての人たちのことです。

2章の前半では、まだ信仰に入ったばかりの人に対し、あなたがたの罪は赦されているという確認と、 神様との関係が回復しあなたの中には永遠のいのちがあるという確認をしました。 その続きでここでは、キリストが再臨されるのを待つ終わりのときであるが、反キリストが来るから注意しなさいと言われています。


『彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:19)


この頃、弟子たちは一つの疑問を抱いていました。それは、なぜユダが反キリストになってしまったのかというものです。私たちも、なぜあの人は救われたのに、教会に来なくなってしまったのだろうか、という疑問を持つことがあります。そうした疑問に対して、ヨハネは、もし、キリストを裏切ったり、反抗したりできるなら、それは、はじめから救われていなかったのであり、一度救われた者は絶対に落ちることがないと説明しています。信じていないのに、自分の利益のために、救われているように見せかける人がいるのです。聖書は、そうした人を毒麦と表現しています。しかし、たとえ、人間関係などにつまずいたり、面倒になったりして教会に来なくなったとしても、神によって救われた人は必ず教会に戻ってきます。聖書はそういう人のことを放蕩息子だと教えています。


『このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:21,22)


反キリストとは、キリストに逆らい、イエス様が神様であることを否定する者です。そして、小さい者たちをだましてきます。だまされないためには、イエス様が神であることから目をそらさず、また、そのようなことを語る人とは交わらないことです。

今日、反キリストと呼ばれる、代表的な異端は、エホバの証人、モルモン教、統一教会などです。彼らは聖書を学び、自分たちをクリスチャンだといいますが、共通して、イエス様は尊敬すべき預言者であって、神様ではないといいます。三位一体の神様を否定します。同じ聖書を元に、全く違う理解をします。そして、彼らにとって都合の悪い教えは、聖書を書き換えています。彼らは、クリスチャンの足を引っ張ろうと、やさしく手ほどきしてきます。


『あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:24)


ですから、イエス様は神だと信じて救われた、その最初の確信に留まることが大切なのです。救われたばかりの人は、間違った聖書を元に、間違ったことを教えられると、そうかなと思ってしまいます。ですから、彼らには近づかないことです。


『あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:27)


注ぎの油とは聖霊様のことです。聖霊様が、イエス様を神だと信じられるようにしてくださいました。反キリストから、神のことを教えられる必要などないのです。だから、どうか惑わされるな、ということです。


『そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:28)


キリストの再臨が先か、人の死が先か分かりません。いずれにしても、私たちはイエス様にお会いするときが来ます。そのときを終末といいますが、そのときに「信頼」を持っているかどうかが重要です。つまり、地上で手に入れた神への信頼、それしか私たちが持っていられるものはないのです。これをどこまでこの地上で蓄えられるか、何を手に入れるための人生なのかを見据えて生きていきなさいということです。神への信頼だけが残るのです。


では、神を信頼するとはどういうことでしょうか。聖書にこうあります。

『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:13)


神の前に持っていけるものは、信頼しかないと伝えていた先ほどの御言葉と照らし合わせると、神への信頼は、信仰と希望と愛から成り立っていることが分かります。

ですから、神を信頼するという時、この世の中の信頼の基準を用いてはなりません。この世の中の信頼は、信念、報酬、行いによって成り立っています。相手を信じれば、報酬(見返り)が得られ、信じる心を表すためには、行いが必要です。世の中の信頼関係は、この中のどれか一つでもバランスを崩すと、簡単に壊れてしまいます。これは、神への信頼とは全く違います。


では、神への信頼を育むためにはどうしたらいいでしょうか。


@困難な情況にぶつかったら祈ることです。信仰を使う第一歩になります。

A希望を語ることです。

『「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:13)。言葉で語らなければ希望など見えてきません。

B罪に気づき、悔い改めることです。

希望を語っても、実際には、現状が全く変わらないことがあります。その時、不安やつぶやきという不信仰の罪が、自分の中に見えてきたらしめたものです。『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)


罪を悔い改める者に対して、神は、赦し、慰め、祝福してくださいます。これが神の愛なのです。悔い改めの祈りをすることで、私たちは神に愛されていることを経験します。

神の愛を受けると、さらなる信仰が湧いてきて、希望を告白できるようになります。すると、ますます罪に気づき、悔い改め、神の愛を受けるようになります。こうやって神への信頼は育まれていきます。神への信頼を育むためにいちばん重要な経験は、愛を経験することです。

世の中の信頼関係では、行いができないと信頼を失います。しかし、私たちは行いができないとき、神にその罪を差し出し、神への信頼を築くことができます。


さて、神に愛されている経験には、悔い改めが不可欠なわけですが、これは、罪をどのように捉えるかによって、どれだけその恵みを受けられるか大きく左右されます。多くの人は、罪を行いでとらえがちですが、それは氷山の一角です。神への信頼を邪魔するものはすべて罪です。つまり、見えるものにしがみついて、神を信頼していないこと、それが罪なのです。ですから、多くの罪に気づくためには、自分がいかに見えるものにしがみついているかに気づくことがカギになってきます。