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2011年10月9日 礼拝メッセージ
神との交わりを深める
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2章1〜17節)
『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:1)


罪を犯さなくなるとは、見えるものを頼るのではなく、神を信頼するようになるということです。罪とは、神の御心を妨げるもののことです。神の御心は、神と人が友のような信頼関係を築くことですから、それを妨げるものが罪です。では、罪とはどんな風に捉えたらよいのでしょう。イエス様はこう教えられました。


『昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。』(新約聖書 マタイの福音書 5:21,22)


イエス様は、「人殺し」も、兄弟に腹を立てて「能なしと言う者」も「ばか者と言う者」も、同じ罪の罰を受けると言われました。この世界では、人を殺せば罪に問われ、罰を受けますが、言葉だけだと罪には問われません。しかし、イエス様はたとえ行いだろうと、ただの言葉だろうと、同じ罪に問うというのです。


「人殺し」、「能なしと言う者」、「ばか者と言う者」、これらに共通するものは「腹を立てる思い」、「怒り」です。怒りが人を殺させ、怒りが能なしと言わせ、怒りがばか者と言わせます。怒りは確かに見えるものに心を向けさせ、人を神から引き離す強烈な力です。だから神にとって怒りは問題であり罪なのです。イエス様は「怒り」に着目されます。何をしたかでも、何を言ったかでもありません。神との交わりを邪魔するかしないかだけです。


『もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:3)


神の命令は、兄弟を愛することです。神の命令は全て、神を愛し、人を愛することに集約されています。また、人を愛することは神を愛することでもあります。この命令を真面目に実行しようとすれば、多くの罪に気づけます。神が御言葉を実行し、罪に気づくように言われるのは、罪を赦し、神との信頼関係を深めたいからです。こうした生き方をしていくと、つまずくことはなくなります。


『兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:10)


クリスチャンはよく、つまずいたと言って兄弟を裁き、自分は被害者だと主張します。しかし、神は、そんな言い訳を決して容認しません。それはつまずいたのではなく、愛せなかったのだと教えています。人がつまずくのは、心が神の方に向いていないためです。もし、私たちが兄弟を愛そうとする方に目を向け、神との交わりをしようと生きるなら、つまずいたではなく、愛せない自分の罪として認識するようになります。そして、それを神に赦していただき、神への信頼を増し加えたいと願います。だから、正しい方向に向かって進んでいるなら、決してつまずくことはないのです。


こうした話を聞くと、自分は光の中にとどまっているのだろうか、と不安になる人たちがいます。ですから、ヨハネは続いて、信仰が成長していない子どものような信仰の人たちに、次のようなことを確認しています。


『子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:12)


信仰がまだ成長していない人は、共通して、悪いことをしたら罰を受け、神の国へは入れてもらえないのではという心配を抱きます。だから、ヨハネは、罪が赦されていることの確認をしています。罪が赦されているとは、罪の罰はもう決して受けることはないという意味です。救いの恵みを再度確認し、安心しなさいと励ましています。


信仰のまだ浅い人たちは、罪を見いだし、神に赦していただくことが神との交わりだと言われると、どうしても引いてしまいます。罪を犯したら、罰を受けるのではないか、神の国へは入れてもらえないのではと恐れ、必死に悔い改めます。それは大きな間違いです。病人は治療を受ける際、治療を受けなければ罰を受けると思うでしょうか。そんなことは決して思いません。罰を受けたくないから、罪を悔い改めるのではありません。自分が苦しみたくないから、平安が欲しいから悔い改めるのです。見えるものに心を向けさせ、神との交わりを遮断し、その結果、自分がつらくなっていると知るがゆえに、神に助けを乞うのです。罰を受けたくないからではなく、いやされるためです。


このことがしっかりと確認されていないと、ヨハネの手紙の話を、間違って理解してしまいます。だから、救いの恵みを確認しています。


『小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:14)


御父を知るとは、永遠のいのちをすでに頂いており、神との関係が回復していることを確認しています。救いの恵みにすでに預かっていることを確認し何の心配もいらないと、念を押して励ましています。


信仰がまだ成長していない人だけではなく、成長した人にも確認しています。その内容は、

『父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:14)

とあるとおりです。「初めからおられる方を知った」と信仰の成長した人たちを励ましているのは、神との交わりがさらに深まり、神のことを深く知ったのだと確認しているのです。そして最後に、今まさに信仰を使って罪と戦い、神に近づこうとしている人たちに対して、赦しの恵みを確認しています。

『若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:14)


私たちは自分の罪に気づくと、もうダメだとあきらめてしまいます。確かに、自分ではどうしようもありません。しかし、私たちは一人で罪と戦うわけでも、自分の力で罪を取り除くわけでもありません。私たちには、弁護して下さる方がおられるのです。

『「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:1)


ですから神の言葉を信じ、御言葉に従おうとする者は例外なく「悪い者に打ち勝った」も同然なのです。神が助けるからです。これこそが、罪を赦し、罪を取り除かれる赦しの恵みです。そうした神の恵みを確認し、罪と戦う者たちを励ましています。そして、さらに御言葉は、戦うべき罪の姿を続けて示しています。


『世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:15)


世を愛させようとする力こそ、罪の姿だと教えています。なぜなら、世を愛せば、神を愛せないからです。「愛する」を、「信頼する」に置き換えると、さらに罪の姿が浮き彫りになってきます。罪とは、神への信頼を妨げるために、世にあるものを信頼させる力です。するとある人は疑問に思います。「世にあるものをも、愛してはなりません。」と「兄弟を愛しなさい。」とは矛盾しないのかと。確かに、人も世にあるものです。


聖書が教える兄弟を愛するとは、相手を喜ばせることでも、相手にほめてもらうことでもありません。私たちが兄弟を愛するというとイメージするのは、自分を愛してもらうという見返りを想定したものです。しかし、神が言われる兄弟を愛するとは、見返りを求めるものではありません。互いに神をさらに信頼できるように励まし、とりなしていくことです。神への信頼に結びつかない愛は、そもそも愛ではありません。だから、何ら矛盾するものではありません。さて、「世にあるもの」をなぜ愛してはならないのかは、続きでこう述べられています。


『すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:16)


世にあるものとは、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢など」を指します。ここに示された欲はどれも、見えるものを信頼し、見えるもので安心を手にするための力です。要は、神との交わりを邪魔し、神への信頼を妨害します。だから、愛してはならないと教えています。そもそもこうした欲は、神から出たものではなく、この世から出たものだからです。この世とは、肉の価値観を指します。神との交わりを邪魔する罪は、肉の価値観から生じる欲だということです。


このように、罪と戦う若い者たちに、罪とは何かをしっかりと教えています。正しい罪との戦いができ、正しい赦しの恵みに預かり、神との関係が築けるよう励ましています。すなわち、世を愛する罪に気づき、世を愛する罪を取り除いてもらうことが、神との交わりです。神は私たちに、こうした神との交わりを求めておられます。