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2011年10月2日 礼拝メッセージ
神との交わりとは
(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1章)
『初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:1,2)


この御言葉は、イエス・キリストのことを表しています。「いのちのことば」すなわち「御言葉」とは、神ご自身なのです。


『私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:3,4)


ヨハネが、イエス・キリストを証しする目的は、クリスチャンが神と交わりを持つようになるためです。交わりを持つことで、私たちと神との信頼関係が築かれます。


私たちは一般的に、交わりというと、親と子ども、あるいは、上司と部下の関係から、相手の期待に応え合うことで、ほめられ、認められ、信頼を築く関係をイメージするものです。しかしこの関係は、相手が期待する目標を達成できないと信頼を得られないため、自分の欠点や弱さを隠さなければならなくなります。交わりというと、つい神との交わりもこのようにイメージしがちです。しかし、聖書が教える神との交わりは、そのようなものではありません。


『神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:5,6)


神であるイエス・キリストを光にたとえ、神との交わりを、光の中を歩くことと重ねています。さらに、光の中を歩くことを、真理を行うことと重ねています。真理というのは、神の言葉である御言葉を指しています。すなわち、神と交わるとは、光の中を歩くことであり、それは、御言葉に従って生きることを意味します。御言葉は、冒頭で述べたように、神ご自身です。ですから、神と交わるとは、御言葉に従って生きることであるのは、当然といえば当然です。ここまでの話では部下が上司の言葉に従って生きる交わりと、何ら変わらないように思えます。でも、果たしてそうでしょうか。続けて御言葉を読んでみましょう。


『しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:7)


互いに交わりを保つ…それは、教会に属することです。教会に属さずして、直接、神と交わることなどあり得ません。教会につまずいたと言って、教会には行かずに神と交わろうとしても、それは無理なのです。なぜなら、この地上での教会は、キリストのからだだからです。

『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 1:23)

ですから、キリストとの交わりの第一歩は、教会にしっかりと属し、クリスチャン同士の交わりを保つことです。


教会に属すると毎週の礼拝で御言葉を聞くことができ、その御言葉で罪に気づかされ、御子イエスの十字架の贖いを受けることができます。また、互いの交わりを通して、多くの罪に気づかされます。人を愛せない自分。ほめてもらうために、奉仕をする自分。すぐにつまずいてしまう自分。比較して落ち込む自分。神の価値観で生きることを目指す教会の中では、必ず罪があぶり出されます。すると、ここからも御子イエスの十字架の贖いを受けることができます。そのことが、「私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」と述べられているのです。


すなわち神との交わりとは、御言葉に従うことであり、教会に属することであり、そこから罪に気づくことであり、そして神に赦しの恵みを受けることです。これが、神との間で行われる、交わりのキャッチボールです。


神は御言葉を語り、人はそれに応え実行し、できませんでしたと報告をします。すると神はそれを赦し、励ましてくださいます。それを受けた人は、再び神の言葉に応答します。こうした言葉のキャッチボールが、神との交わりです。確かに、見た目は上司と部下のような交わりに見えますが、実際はまるで異なります。なぜなら、部下は上司の言葉に従い、それができたら報告して、ほめてもらう交わりを目指すからです。そのため、できなかったことは隠そうとします。しかし、神との交わりは全く逆で、できなかったことだけを報告し、赦してもらう交わりを目指します。もし、御言葉に従ったけれど自分には罪はないというのなら、それは間違った交わりを目指していることになります。


『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:8)


神との交わりとは、御言葉に従うことであり、そうすれば必ず罪に気づきます。気づかず、自分には罪はないと言うのなら神と交わっていません。御言葉に従ってなどいません。ただ、自分を欺いているだけです。


『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

私たちは、神が語られた御言葉に従うことで、できない自分が見つかり、神に罪を言い表します。神はその言葉を聞き、私たちを赦すと言われます。そして、弱い私たちを御霊が助けてくださいます。そのことを通して、ますます、私たちは神を愛するようになり、信頼関係が築かれていくのです。これを繰り返していくことが、神との交わりです。


だから、神と交わっていると言い、御言葉に従っていると言い、でも、罪を犯してはいないと言うのなら、私たちは神を偽り者とするのです。なぜなら、神は、人に罪を気づかせるために御言葉を用意され、その罪を取り除くために十字架に掛かられました。人に罪がなければ、御言葉は意味がなく、神の十字架も必要なかったことになり、神は嘘つきだと言っているのと同じです。そういう人のうちには、神の御言葉は働いていません。


『もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:10)


イエス様はペテロの足の泥(罪)を洗いきよめるときに、こう言われました。


『ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:8)


罪に気づくことが神との交わりの唯一の接点であり、人の問題の解決なのです。そのことに気づけば、私たちは罪に対して正しいイメージが持て、同時に神に対しても正しいイメージが持てます。神は愛であり神の心にあるのは、何とか人を罪から救い出したいという思いです。


『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。』(新約聖書 テモテの手紙第一 1:15)