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2011年9月18日 礼拝メッセージ
アブラハムの生涯


アブラハムの生涯を通して、ヨハネの福音書で見てきた神の恵みについておさらいしていきましょう。

アブラハムは75歳の時に、神から次のように言われました。 『その後、はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」』(旧約聖書 創世記12:1)これが、神がアブラハムに与えた最初の訓練です。故郷を捨てさせる最初の訓練は、彼が築いてきた評判を捨てさせ、安住できるものを捨てさせることでした。それは、つまり心の平安の糧としてきた鎧を脱がせることを意味します。


アブラハムはこの神の言葉に従い、故郷を後にし、カナンの地を目指しましたが、そこに到着するや否や患難に襲われました。激しい飢饉です。仕方なしに、エジプトに避難することにしましたが、そこには自分を守る故郷という鎧はもうなく、鎧がないどころか、アブラハムにとっては勝手の分からない、身分の保障もない、異端者の住む大変危険な地でした。今までは、築いてきた評判に守られていたのに、もう何も頼るものはなく、そこに見えてきた自分の姿は、身の危険に怯える信じがたいものでした。そこで、彼は自らの命を守るため、あろうことか、妻に自分の妹だと言うように頼んだのです。自分の知恵に頼り、平安を手にしようとしたのです。 「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」』(旧約聖書 創世記 12:13)


ところがこのことが、とんでもない事態を招きました。彼女が目に留まり、エジプトの王パロが、彼女を宮廷に召し入れたのです。まさか、王の女として召し抱えられるとは予想外で、悔やんでもどうしようもできず、完全に打つ手を失い、行き詰まってしまったのです。アブラハムは、弱い自分に気づき、神に心から悔い改め、赦しの恵みを受けたことでしょう。だから、神はアブラハムを責めることなく、すぐさま彼女を助けました。「しかし、はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。」』(旧約聖書 創世記12:17)そして、アブラハムは得た富を失うことなく、安全に脱出できました。身から出たさびであっても、神はそのことを責めず、赦し、助けてくださったのです。


この最初の出来事から、患難が鎧を役に立たなくさせていく様子が分かります。初めは御言葉に従うことで患難にぶつかり、次は相手をだますという罪の結果、患難にぶつかりました。その中、アブラハムは完全に行き詰まり、鎧の下に隠されていた罪深い惨めな自分から逃げられなくなりました。そして、神にすがるしかない自分に気づいたのです。砕かれる恵みです。赤ちゃんが母親に対して、自分の弱さゆえに、絶対的信頼を寄せるのと同じです。彼は、患難を通して自分の罪深い弱さを知り、神に対して絶対的信頼の基礎を築かされたのです。赦しの恵みがここにあります。まさに、神の狙いどおりになったのです。


では、その後、アブラハムがどうなったのか見ていきましょう。

その後、神は、『「あなたの子孫を地のちりのようにならせる」』(旧約聖書 創世記13:16)と、アブラハムに約束をされ、彼を励まされました。今度は、神の約束を信じて待つという訓練をされたのです。御言葉に従うというと、何かすることをイメージしてしまいますが、こうした神の約束を信じて待つというものもあります。


彼はその約束を感謝し、子どもが与えられることを期待し、当初は喜びました。しかし、神は、それをすぐには与えませんでした。待たせたのです。そしてさらに、こう励まされました。『「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」』(旧約聖書 創世記15:1)そのとき、アブラハムは神に泣きつきました。神の約束を信じて待っていても、現実には何の変化もなかったからです。『「ご覧ください。あなたが子孫を私にくださらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」』(旧約聖書 創世記15:3)


アブラハムは、神の言葉に従い、約束を待つことで再び患難に襲われました。子どもができない自分を見るとき、再び惨めで不信仰な自分が見え始めてきたのです。そこで神にあわれみを乞えば良かったのですが、知識の鎧が、神の約束を別な意味に解釈することで、自分の惨めな姿を隠しました。神が言っている「あなたの子孫を地のちりのようにならせる」とは、「私の家の奴隷が、私の跡取りになる」ことだと解釈したのです。この解釈ですと、神の助けを必要としません。自分の不信仰な姿を見ないですむ、大変楽な道です。


私たちも、神の言葉に対して同様のことをよくしてしまいます。例えば、聖書は「怒るな」と教え、怒りは罪だと教えています。しかし、それに従おうとすると、鎧の下の罪深い自分が見えてしまい、そのつらさから逃れるために、知識の鎧が、この怒りは義憤であり、聖書が教える罪とは異なると言い訳をしてしまうのです。こうして、神のあわれみ(赦しの恵み)を必要としない楽な選択をしてしまいます。アブラハムも、私たち同様に、この患難に耐えきれず、誘惑に手を出しそうになるのです。では、このアブラハムに対して神はどうされたのでしょうか。


神は、そんなアブラハムの不信仰を責めることなく、さらに祝福してこう言われました。 『「あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」』(旧約聖書 創世記15:4〜5)神は、「子孫」という意味を明確にされ、子どものいなかったアブラハムに、子どもを授けるから心配するなと再び励まされました。しかし、それは同時に、アブラハムが楽な道に逃げることのないように、釘を刺ことでもありました。アブラハムは素直にそれを信じました。神は私たちが危なくなると、このように励まし助けてくださります。


再び、神の約束を待つことになったアブラハムと妻サラでしたが、その後も妻サラの体には何の変化もありませんでした。サラは自分が産むのをあきらめ、アブラハムの同意のもと、女奴隷ハガルに子を産ませ、イシュマエルとしました。あれほどまでに神が約束し、励ましたにもかかわらず再び勝手な解釈をし、安易な道に逃げてしまったのです。まるで、ペテロが、自分を守る「人の賞賛」という鎧をなくしたとき、イエスを知らないと三度も安易な道に逃げたのと同じことをしてしまったのです。


しかしペテロのときと同様に、神はアブラハムをあわれみ、再び逃げることのないよう励まされました。彼が99歳の時、今度ははっきりと、サラに男の子を与えると言われました。もう、勝手な解釈はできません。しかし、彼は神の言葉を聞きはしましたが、そんなことは無理だと、内心笑ってつぶやきました。そして、イシュマエルを跡継ぎにと頼みました。すると、神はさらにはっきりこう言われました。『「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」』(旧約聖書 創世記17:19)もう自分の知恵に頼って逃げることができず、この約束の成就には、ただ神を信じるしかなくなったのです。


アブラハムは当初、神への信頼を妨げる最大の罪、不信仰と向き合うことを避けました。そんな罪深い自分を見たくなかったのです。何とか不信仰をごまかし、神を信頼した結果こうなりましたと帳尻を合わせたかったのです。そのために知恵を尽くし、奴隷が跡取りになると解釈したり、別な女性に子を産ませたりしました。しかし、神にことごとく拒まれ、自分が不信仰の罪にいかに冒され、神を信頼したくてもできない状態にあるかを、ついに認めざるを得なくなりました。もう自分の不信仰の罪を何とかするしかなくなったのです。でも、自分ではどうすることもできず、ようやく砕かれる恵みを手にし、神に必死にあわれみを乞いました。アブラハムは四方八方ふさがれて、始めて神を頼り、赦しの恵みを受けました。創世記では、このあたりのアブラハムの様子は、ただ不信仰でつぶやく姿しか書かれていませんが、ローマ書を読むと、追い詰められたアブラハムが、その後、必死に不信仰と戦う様子が詳しく書かれています。


『「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:18〜21)


このローマ書を読めば分かりますが、当初は確かにつぶやいたりはしたものの、アブラハムの信仰はそれで終わっていたわけではありませんでした。一度は笑ってつぶやきましたが、その後は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じるようになりました。この間に、アブラハムは赦しの恵みを受け、神への信頼を増し加えたことが分かります。ペテロがイエスを裏切り、赦しの恵みを受け、その後、全くの別人になったのと同じです。アブラハムは、故郷を出ることで患難に会い、結果、神への絶対的信頼の基礎が築かれ、その基礎を元に、神の約束を信じて待つことで、神への信頼が大きく成長したのです。


こうした経緯から、神が、いかにアブラハムを、神を信頼するしかない方向に導いているかが分かります。この方向こそが、患難に対する脱出の道です。当時は、神が直接アブラハムに語りかけていますが、今日は、私たちのうちに住まわれる御霊が、私たちに願いを起こさせ、同様に脱出の道へ導いてくださります。


では、引き続きアブラハムがどうなったのか見ていきましょう。

神はアブラハムが100歳の時、ついに男の子を授けました。イサクです。これでハッピーエンドかと思いきや、神はアブラハムに最後の試みをされます。それは、神を本当に恐れる者かどうかを試すものでした。恐れるとは、神を信頼するという意味です。これが、最も難しい試みです。アブラハムがどこまで神を信頼できるのかを試すために、神は愛するイサクを捧げるように命じたのです。


年老いたアブラハムにとっては、イサクは最後の鎧でした。自分の命にも替えがたい宝でもありました。ようやく与えられた念願の子どもなのだから、子どもに対する思い入れがとてつもなく大きかったことは言うまでもありません。だからこそ、この神の言葉は、とてつもなく大きな患難をもたらしたことは容易に想像がつきます。ここに神の強い意志が伺えます。たとえ、どのようなものを手にしようと、それに頼ってはならない。頼るべきは、神だけであり、神だけが、人の幸せの根拠であるとする意志が伺えます。そこには、全くの妥協はありません。


アブラハムはこの命令に従いました。彼がこの最も困難な命令に対してつぶやいた様子は描かれていません。ペテロ同様に、以前のアブラハムとは確かに変わっていました。とはいうものの、彼はつぶやかなかっただけであり、必死に不信仰と戦い、神を信頼する道から外れないようにしたことは容易に想像がつきます。だから、イサクが生け贄の羊がありませんが、それはどこにありますかと尋ねてきたとき、彼は、『「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」』(旧約聖書 創世記 22:8)と答えました。神は、一言もそのようなことは言っていませんでしたが、彼はそう信じようとしていたからこそ、そう答えることができました。ここに、彼が不信仰と戦った形跡が伺えます。彼は自ら不信仰と向き合い、神の助けを借りて戦ったのです。これこそが、神が望んでいた赦しの恵みです。神は、彼の罪を取り除き、しっかりと御言葉に立てるように支えられました。だから、アブラハムは神の言葉を実行に移せたのです。そして、アブラハムがイサクを捧げようとしたそのとき、神は、すぐさま御使いを通して、イサクに手をかけることを止めさせました。神は、神が望んでいた友としての信頼関係をそこに見たのです。ここに、神の描く人の青写真が実現し、アブラハムは、神の友と呼ばれました。神の恵みは、この実現のためにあるのです。


『「そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」』(新約聖書 ヤコブの手紙 2:23)


今見てきたアブラハムの生涯に、神の恵みが描かれています。神の御言葉に従うことで、砕かれる恵みを受け、赦しの恵みに至る様子が伺えます。その中で見落としてならないのは、アブラハムは特別な人ではなく、鎧の下は私たちと何ら変わらない弱い者であったということです。弱い者であるがゆえに神の恵みが豊かに働き、大きく変えられていったのです。ですから全ての人にアブラハムと同様の希望があります。ただアブラハムは私たちと何ら変わらない弱い者でしたが、神から目を離さず、神の言葉に従おうとしました。違いはそれだけです。


よくクリスチャンは祈りなさいと言われます。祈りは、神から目を離さなくするための大切な作業だからです。祈りはクリスチャンがすべき労働でも、願いを叶えるためにしなければならない仕事でもありません。祈りは弱い私たちが、見えるものに心を奪われないためにするものです。神の約束に踏みとどまるために、罪の誘惑に負けないために、自分に必要だからするのです。礼拝や賛美も同様です。アブラハムは、誰よりも熱心に祈りを捧げていました。祭壇を築き、十分の一を捧げ、神を礼拝していました。そうやって、弱い自分が神から目を離すことのないようにしていました。だからこそ、患難に会って倒されても、それでお終いとはならなかったのです。神は、神に従おうとする者を必ず助け、見捨てることはなさりません。アブラハムの生涯から、私たちはそうしたことを学ぶことができます。


『「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:8〜9)


アブラハムの生涯は、神の言葉に従った結果、多くの患難に会い、自分の「弱さ」に気づき、神を信頼する者に変えられていく生涯でした。それは、鎧を捨てさせる生涯でもありました。75歳にして故郷を捨てることから始まり、イサクを捧げるまで続く、まさに、砕かれる恵みに預かる生涯でした。それは神が、人が神を信頼できるようになり、神の友と呼ばれる関係を目指しているからです。報酬で結ばれる関係ではなく、神のからだのワンピースとなる関係を目指しているからです。体の各器官は、報酬の関係ではなく、ただ、互いの信頼関係で結ばれているように人に働きかけをされます。それが、神の恵みです。神は、第二第三のアブラハムを育てようと、私たちに日々、働きかけておられます。これが、神の恵みです。