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2011年9月4日 礼拝メッセージ
見ずに信じる者は幸いです
(新約聖書 ヨハネの福音書 20章19〜31節)

『イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。・・・聖霊を受けなさい。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 20:21〜22)


イエス様は、なぜ弟子たちの前に現れたのでしょうか。何が目的で現れたのでしょうか。それは平安を与えるためです。イエス様が与える平安は、世の平安とは違います。世が与える平安は、見えるものにしがみつくことで得る平安です。見えるものはいつか消えていきます。イエス様は、繰り返し平安があなたがたにあるように、と言われました。そして、私たちに聖霊を受けなさいと言われました。


『十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 20:24〜27)


トマスは、他の弟子たちから、イエス様がよみがえられた、という話を聞いていましたが、信じることができませんでした。ですから、イエス様が目の前に現れたときも、脇腹に指を差し入れなければ信じないと言いました。トマスは、神を理解するということと信じることを間違っていました。多くの人は、納得したら信じるけれども、納得がいかなければ信じない、と言います。しかし、これは信じているのではなく、知識を増やしているにすぎません。イエス様が言われる「信じる」ことは、自分がどうしようもない罪の病に冒されている状態だと知り、神にしがみつくことです。 イエス様は、トマスが納得しなければ信じないことが分かっていました。だから、好きにしてご覧なさい、とその手を伸ばされました。イエス様は、トマスに、見ずして信じる者は幸いだと言われました。


トマスは疑っていたので、平安がありませんでした。しかし、他の弟子たちは、イエス様がよみがえられたということを信じていたので、平安がありました。私たちの平安は、「信じる」ことから生まれます。私たちが、つらくなるのは、信じられないからです。では、なぜ信じることができないのでしょうか。


そのことを子どもたちの姿から学んでいきましょう。子どもは信じることが得意です。人は、大人になれば、なるほど、信じる心を失っていきます。大人と子どもの違いは、どこにあるのでしょう。それは、自分を守る、頼りとするものの数が違うのです。例えば、大人は、子どもよりもお金を持っています。また、知識や経験も豊富です。しかし、子どもは、大人に比べ、自分の頼りとできるものが少ないです。こうした頼る者を鎧と呼んでいますが、鎧が少なければ少ないほど、神の愛は見えてきます。本来、人は、神の愛が見えていました。ところが、鎧を着込むことで、神の愛が見えなくなってしまいました。それゆえ、人は頭で納得しないと信じなくなってしまったのです。


この鎧は、信じないことだけでなく、罪も隠してしまいます。私たちは、人から悪口を言われたら、言った相手のせいでつらくなったと思ってしまいます。しかし、本当は、悪口を言った相手を愛せない、そういう醜い自分に出会ってつらくなるのです。そのとき、神様に悔い改めればいいのですが、つらさを感じると、人のせいにしたり、人に同情を求めたり、相手を屈服させて満足させたり、快楽に身を投じたりと、何かの鎧を着込むことで心をごまかしてしまいます。


ではどうして人は鎧を着込んで、罪を隠してしまうのでしょうか。理由は簡単です。誰でも髪が薄くなったら、隠したくなります。それは自分の本性で、自分自身の価値を現すと思ってしまうからです。しかしこれを飲めば直りますという薬が出たら、みんな飛びつくでしょう。罪も同様です。罪は人の本性で、人はこれは直らないと思っています。だからそれを隠して生きてしまいますが、これは自分の姿ではなくて、完全に直るということを知ったらどうでしょう。治してくれる医者に行きます。私たちはむさぼる姿が自分の本性だと思っています。しかし、それは単に病で罪に冒されてしまっただけです。そのことに気づかせ、私たちを解放するために、イエス様は十字架にかかってくださいました。鎧を着込んで生きることは疲れてしまいます。


『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』(新約聖書 マタイの福音書 11:28)


トマスは、自分を守る知識や常識の鎧に覆われ、神が見えませんでした。鎧があるというのは、本当の自分を見たくないと思っているからです。しかし、これは、ただ死によってもたらされた病にすぎません。イエス様の十字架は、死を滅ぼす十字架です。これを受けとめることができると、人は鎧にしがみつかなくなります。