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2011年8月28日 礼拝メッセージ
信頼に必要なものは
(新約聖書 ヨハネの福音書 20章1〜18節)

『「イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」」』(新約聖書 ヨハネの福音書 20:15)


マリヤは、目の前にイエス様を見ていながら、そこにおられるのが、イエス様だと分かりませんでした。マリヤも弟子たちも、イエス様はよみがえられるということを、何度も聞かされていました。しかし、聞いていただけであって、本当には信じられていなかったのです。そのため、目の前にイエス様が現れたときも、管理人だと思い込んでしまいました。なぜ彼らは、イエス様の言葉を信じることができなかったのでしょうか。

信じるとは、知識や経験で神を理解することとは違います。神を信頼することは、医者を信頼することに似ています。


例えば、あなたの歯が突然どうしようもなく痛み出したとします。鎮痛剤を飲んでもまったく効かず、耐えがたい痛みが続きます。ところが、あいにく、その日はどの歯医者も休みで、たった一件だけあなたを受け入れてくれる歯医者を見つけました。あなたは迷わずその医者に駆け込まないでしょうか。一度も受診したことがない医者であっても、痛みに耐えられなければ、その医者を信頼するのです。このとき、医者を信頼するのに何の努力も必要としません。痛みが大きすぎるため、医者の助けがどうしても必要だからです。


神が私たちに望む、神への信頼とはこういうものです。自分の心が罪の病に冒され、苦しくてどうしようもない状態だと気づけば、神にすがるしかありません。しかし、神にすがらないでいられるのは、まだそれだけの心の余裕があるからです。


私たちの心は、多少のつらさなら、痛み止めで押さえようとします。心の痛み止めは、人に責任を転嫁したり、裁いたりすることです。私たちは、日常的にこうしたことで、心のつらさから逃れようとしています。


アダムは、禁じられた実を食べたことをエバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。人類に死が入り込んだその時から、私たちは同じ行為で、つらさから逃げようとしています。確かに、責任転嫁したり、裁いたりすると、心にあったつらさが一時的に麻痺します。その結果、恐ろしいことに、私たちは神の元へいかなくなります。


人生で出会う様々な痛みを、聖書は「患難」と呼んでいます。人は患難に出会う時、必ず選択に迫られます。神に頼るか、見えるものに頼るかのどちらかの選択です。こうした試みを、聖書は試練と呼びます。神を信頼するかどうか試されることです。ですから、患難は試練ということができます。また、患難は誘惑ということもできます。なぜなら、試練は、神を信頼するように神が働きかけてくださるだけではなく、それを邪魔する悪魔が、見えるものを頼るように誘導してくるときでもあるからです


患難は、神を信頼する道への入り口、チャンスです。見えるものに頼っても、痛み止めを使っても解決されないことに気づき、逃げ場を失う時ほどチャンスなのです。自分の心の中にある恐れ、不安、自分がいかに罪の病に苦しめられているのかに気づくなら、私たちは自ずと神を信頼するようになります。


しかし、だからといって、どうしようもない状態になるまで、つらさを放置しておく必要はありません。私たちは、病気かなと思ったら、医者に行き適切な処置を受けます。同じように、私たちは、つらいなと感じたらすぐ神の元へ行けばいいのです。イエス様が、主の祈りの中で「私たちを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈られましたが、この意味は、わざわざ患難に会ってひどく苦しんでから神に頼るのではなく、少しでもつらさを感じたなら神に頼りすがることができますようにという意味です。


神を信じるために必要なもの、それは、知識でも経験でもありません。自分がいかに神を必要としているかを知る、ということにかかっています。