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2011年8月21日 礼拝メッセージ
十字架の意味
(新約聖書 ヨハネの福音書 19章23〜42節)

【十字架の意味1…罪の罰を受けてくださった】


『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)


本来、私たちが受けるべき罪の罰を、イエス様は、十字架で代わりに受けてくださいました。それは、私たちが義に生き、いやされるためです。私たちは、死の罰を赦され、神様との関係を回復されましたが、未だに死がもたらした罪の病に苦しめられています。人は、苦しみから逃れようと、自分の弱さや欠点等を何とか変えようと努力しますが、これは、後から入り込んだ病原菌のようなもので、神にいやしていただけばいいものです。


『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:10)


この世界はギブアンドテイクの関係、つまり何か良いことをしてその対価を得る報酬関係によって成り立っています。その考え方が染みついた私たちは神様との関係もそのように誤解しがちです。しかし聖書には、私たちはキリストの体の一部として造られた、とあります。体とは良いことをしたらほめられる関係ではなく、互いに補い合い、一体となって働く関係です。つまり神と私たちの間にあるのは報酬ではなく、信頼関係です。


報酬の関係は、お金、仕事、家族、人…といった、見えるものに価値を見いだし、そこに自分の価値を置きます。盗みや、姦淫、戦争など、すべての悪の根は、見えるものと自分の価値を結びつけるところから生まれます。見える物に価値を置く考え方は、罪の根なのです。


イエス様は、この考え方も十字架につけたのです。悪いことをしたら罰を受ける…その考えを、十字架は、根底から覆しました。神は、私たちの行いにかかわらず、私たちを一方的に救い、弁護してくださる方なのです。


【十字架の意味2…死を滅ぼし死の恐怖から解放する】


『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14)


私たちは、本来受けるべき死の恐怖と、死の恐怖におびえる自分を見たくないという思いから、見えるものにしがみつくようになりました。そして、本当の自分の姿を見ないように、それを鎧として着込むようになったのです。そして、さらに良い鎧、価値を手に入れようと、必死に生きてきました。しかし、神の手をつかむためには、鎧を脱ぎ、本当の自分の姿を見せる必要があります。


人は、よく弱さについて語りますが、弱さとは、鎧を脱がされた状態のことです。人はみな、罪や過ち、予期せぬ出来事などによって、頼りにしていた鎧が砕かれるときがきます。神は、力ずくで鎧を脱がせることはしません。そんなことをしなくても、人が頼りにしている鎧はもろく、必ず壊れるときが来ることを知っているからです。どんなに立派な鎧も、死の前には太刀打ちできないからです。神は、私たちの鎧が壊される時を待ち、新たな鎧にしがみつくことなく、神の差し伸べる手を掴むことができるように導いてくださっています。


『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。 』(旧約聖書 イザヤ書 41:13)


聖書に「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(Tコリント12:27)とあります。私たちはキリストの体の一部分として生まれて来ました。例えば、あなたは手だったとします。しかし、死が入り込んで、キリストと切り離された霊的に死んだ状態で生まれてきたので、切り離された単体の手として生まれました。手だけの存在として生きているので、自分が何者なのか全く分かりません。自分の不格好さを隠すため、鎧で身を包み、その鎧を自分自身だと思うようになりました。お互いが鎧で身を包み、外側だけ見て、相手を判断し、それが人の価値だと思い込むようになりました。しかし、あるとき患難に出会い、その鎧がはがされ、本当の自分の姿が見えたのです。その自分をイエスさまにつなぎ合わせるなら、自分の価値が分かります。


なぜイエスさまは私たちを弁護してくださるのか。なぜ鎧を脱がせるのか。それは自分の体の一部だからです。そのことに気づくためにも、あなたが価値を置いている物、その鎧がはがされることが必要なのです。


『今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:12)