ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2011年8月14日 礼拝メッセージ
弱さに気づく恵み
(新約聖書 ヨハネの福音書 19章)

聖書は、神の恵みは弱さの中に働くと教えています。では、弱さとは何なのでしょうか? そのことを、イエス様が十字架にかかられる前の様子を通して、学んでいきましょう。


『そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。』(新約聖書 ヨハネの福音書 19:1〜3)


イエス様が受けられたむち打ちは、ひどく痛めつけられるように細工されており、一度打たれるだけで皮膚は張り裂け、筋肉に食い込むようなものでした。いばらは、棘が鋭く、かぶるだけで頭から血が出てきました。紫の服は、イエス様を馬鹿にした行為であり、顔を平手で打つとは侮辱した行為です。イエス様は、このように、人間が考えつくあらゆる残酷な仕打ちをされましたが、しかし、一切弁解されませんでした。


『彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。彼らはそこでイエスを十字架につけた。』(新約聖書 ヨハネの福音書 19:17〜18)


イエス様は、ピラトに訴えて助けを受けるという選択も、自ら十字架にかかられました。このイエス様の苦しみにどういうメッセージが込められているのでしょうか。それを知るために、イザヤ書53章のイエス様の十字架のことが預言されている御言葉を見ていきましょう。これは、ヨハネの福音書19章と重なる部分です。


『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。』(旧約聖書 イザヤ書 53:4〜9)


なぜ、イエス様の十字架が必要だったのでしょうか?それは、私たちの罪を取り除く為です。しかし、この御言葉では、罪という表現ではなく、イエス様は私たちの病を負われたと書かれています。それは、罪と病とが同じ性質であるがゆえです。キリストは、罪を取り除く為に、十字架にかかって苦しまれました。それは、病のような私たちの罪をいやすためです。


本来、罪には罰が伴います。罪の罰は死であると聖書は教えていますが、「死」とは、分離するという意味です。「死」には、魂の死と肉体の死があります。魂の死は、神との分離、肉体の死は、体と魂の分離です。イエス様は、この死を滅ぼすために、十字架にかかり、3日後によみがえられました。死が滅ぼされた私たちは、神様との関係が回復し、肉体は、やがて一度は死を通過しますが、新しく朽ちない体を頂きます。


そもそも、神が人を造られたのは、神との信頼関係で結ばれるためです。しかし、一度は死を通過しなければならないため、人は、未だに死の恐怖を背負って生きています。人は、この死の恐怖をごまかすために、どうしても見えるものにすがって、見えるものを頼って生きていこうとします。見えるものを頼ること、これが罪です。見えるものを頼る者にとって、死の恐怖とはすなわち失う恐怖です。


神は、この罪を取り除いていかれます。しかし、神は、罪を取り除くことで、人が神を信頼することができるように信頼関係を回復されていきます。


人は様々なものを頼って生きています。ある人はお金、ある人は仕事、ある人は家族、ある人は肩書き、ある人は趣味、数え切れないほど、見えるものを頼りとし、それによって死の恐れから心をごまかして生きています。こうした人が頼りとするものを聖書では「富」といいます。私たちは富を鎧のようにして、何重にも着込み、死の恐れから身を守って生きています。そして鎧にしがみついて生きています。しかし、聖書は、神にも仕え、富にも仕えることはできません、と教えています。


神は、人が抱える死の恐れを、神に頼ることで平安を得てほしいと願っておられます。人は、見えるものにしがみつく限り、罪を犯し続けるからです。もちろん、その罪に対しもう罰はありませんが、人の心には、嫉妬や憎しみ、様々な苦しみが生まれ続けます。それは、神との間の壁となり、神との信頼関係を妨げるものになってしまいます。ですから神は見えるものにしがみつくことをやめ、神の国と神の義をまず第一に求めなさいと言われます。


多くのクリスチャンは、幸せの根拠を、鎧、すなわち頼るべきものが与えられているかどうか、ということに置いてしまいます。鎧が与えられていれば、死への恐れも克服したかのように思ってしまいます。ですから、こんなに神様に頼るべきものが与えられているから幸せだと言ってしまいます。しかし神は私たちに、「神が共にいるから幸せだ」ということに気づいてほしいと思っておられます。


そのことを教えられたのがヨブです。ヨブは、もちろん神に対し誠実な人でしたが、同時に様々な頼るべきものを持っていました。それはすべて神が与えてくださったもので、彼はそれらのことを神に感謝していました。しかし彼は自分を支えていたすべてものが奪い取られると、自分が生まれてきたことを呪うようになりました。彼の幸せの根拠は、見えるものにあったことが露呈されました。彼は、そのことに気づき、神の前に心からへりくだり、悔い改めました。


放蕩息子の兄も同様です。彼はいつも父と共に歩んでいました。ところが彼の幸せの根拠は、父と共にいることではなく見えるものをどれだけ与えてもらえるかということにありました。

神の恵みは、私たちが幸せの根拠を置いている鎧を取るときに働きます。頼りとする鎧を失い、自分が肉体の死の恐怖に怯えるどうしようもないものだと知るとき、人は砕かれた状態になります。それが弱さなのです。神にしかすがることができない、神はそういう心の砕かれた者に恵みを与えられます。ただし勘違いしてはならないのは、鎧を取るというのは全て捨ててしまうということではありません。心をそちらに向けないということです。いくら全てを捨てたところで、心が富に向いているのなら何の意味もありません。神が言っておられるのは、心を神に向けなさいということです。


私たちは肉体の死に怯える弱い者です。その恐れを見えるものでごまかすのではなく、主の前に認め主にすがるとき、神の恵みは豊かに働きます。イエス様は私たちと信頼関係を築いていくために、十字架にかかられ私たちを導いておられるのです。