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2011年7月31日 礼拝メッセージ
主を裏切ったペテロ
(新約聖書 ヨハネの福音書 18章1〜27節)

『「それはわたしです」』(新約聖書 ヨハネの福音書 18:6)


イエス様はご自分のことをエゴ−・エイミー(ありてあるもの)と言われました。神の称号を名乗られたのです。彼らは、神と聞いてあまりの驚きに倒れてしまいました。この後、イエス・キリストは十字架にかけられますが、罪状は、ご自分を「神」とされたからです。


『シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 18:10〜11)


聖書には、このように耳を切り落とされたしもべマルコスの名前まで、記載されています。それは、何を物語っているかというと、聖書がいかに真実に基づいた書物かということを示しています。新約聖書が書かれたのは、イエス様が十字架にかかられてまもなくでした。当時のことを知っている人たちがみな生きていた時代に書かれたものです。もしそこに偽りが書いてあれば、そんな書物はすたれてしまいます。しかし、聖書が今日までこうして書き換えられることなく、私たちの手元にあるということは、いかに信ぴょう性の高い書物かということが、歴史を通しても確認することができます。


さて、ペテロは敵に対して剣を抜きました。イエス様は、それを叱責されます。このイエス様の姿から、私たちは、3つのことを知ることができます。

1. 敵は人ではありません。私たちの中に住む肉の価値観が敵です。
2. 武器は剣ではありません。私たちに与えられた信仰です。
3. 戦うのは私たちではありません。神ご自身が戦われるのです。

ですから、イエス様は、剣をさやに納めるように言われました。


『それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。』(新約聖書 ヨハネの福音書 18:27)


イエス様は、ペテロに三度私を裏切ると言われました。ペテロは、それを強く否定していましたが、イエス様が言われたとおり、三度イエス様を知らないと言い、裏切りました。

では、なぜペテロはイエス様を裏切ったのでしょうか。当初、イエス様がいるところには、大勢の人がついていきました。ですから、ペテロにとって、イエス様の弟子であることは誇りだったのです。イエス様が捕まった今、その地位は一気に崩れ去り、身を追われる事態になってしまったのです。殺されたくない、人から嫌われたくない、人から良く思われたい。その思いが、イエス様を裏切らせました。

では、なぜペテロは、人からよく思われたいと思ったのでしょうか。なぜ嫌われたくないと思ったのでしょうか。それを知るために、次の御言葉を読んでみましょう。


『その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:21〜23)


あるときから、イエス様は、自分が苦しみを受けてのち、三日目によみがえるということを語りはじめられました。そんなことを人々の前で言ったら、イエス様は頭がおかしくなったと思われ、評判が下がる、と思ったからです。ペテロは、イエス様のことを思って、ここは一つ世の中の常識を知っていただこうとイエス様をいさめました。しかし、それは、イエス様の目から見れば、「下がれ。サタン。」と言われるようなことでありました。


サタンは敵の象徴です。ですから、下がれサタンとは、「出て行け、敵よ」という意味です。では、ペテロは敵だったのでしょうか。サタンだったのでしょうか。違います。ペテロ自身は敵ではありませんが、イエス様の目からすると、ペテロの言ったこと、それが、サタンの目指しているものと同じだったということです。サタンの目指している方向は、人を神から遠ざけることです。これは肉の価値観です。イエス様は、ペテロの中の肉の価値観を指して、悪魔の考えと一致していると言われたのです。ペテロにしてみたら、イエス様のことを思い、純粋にイエス様のために言っただけのことです。しかし、それは、神の考えと反対の方向に進むものでした。罪というのは大半がそういうものです。本人は正しいと思ってやったのに、罪を犯させられている、だから怖いものです。


イエス様は、「下がれ。サタン。」と言われた後、「あなたは私の邪魔をするものだ。」と言われました。では、何が神様の邪魔をしているのでしょうか?それは、「神のことを思わないで、人のことを思っている」思いです。これが、神様から私たちを引き離す敵です。人から愛され、心を満たそうとする思い、それが神様から私たちを引き離す敵なのです。


そもそも、何が人を苦しめているのでしょうか?何が人を追い詰めるのでしょうか?人から愛されようという思いが人を苦しめています。人から愛されようと思うと、愛されるための努力が必要になります。努力しても愛されないと、怒りがこみ上げ、周りと比べるようになります。人から愛されることで埋められる思いは、一時の効果しかありません。人の苦しみは、人から愛されたい、と思う気持ちが常に根底にあります。そして、聖書はこれを「偶像礼拝」と教えています。人からよく思われようという小さな思いが、偶像礼拝という罪を生み出しているのです。


では、人は、なぜ人からよく思われたいのでしょうか?
それは、「死」が人に入り込んだからです。「死」には二つあります。やがて訪れる「肉体の死」と神様との関係が断たれる「霊的な死」です。人は、死が入り込んだことで、生きたいと思うようになりました。神様との関係が断たれた人間は、人の言葉を食べて生きるようになりました。これが、人からよく思われようとする生き方を生み出しています。


私たちは、イエス様の十字架によってもう「死」の解決を頂きました。神との関係が回復され、神からの愛で満たされるようになりましたが、未だに人の愛を食べようとする習慣が残っています。この思いは、御心を妨げてしまいます。自分がクリスチャンだと告白できないクリスチャンは、この日本に実にたくさんいます。それは人の目が気になるからです。


さらに、掘り下げて考えると、良く思われたいという思いは、自分がダメな者だから、良くなることを目指そうとする生き方です。日本人は、HOWTOものが好きです。どうすれば、×な自分が○になれるのか。どうすれば、成功するのか。どうすれば美しくなれるのか。常にそうした考えを生み出します。それは、今のあなたではダメだ。だから、何かを変えなければ、人から愛されないし、良くなれない。そうした考えがHOWTOにしがみつかせています。根底にあるのは、自分はダメだという考えです。


しかし、私たちはダメなものではありません。ペテロも、人からよく思われたくて、イエス様を裏切ってしまいましたが、それでも、イエス様は、ペテロを責めず、十字架にかかられる前、彼の目を見て「あなたを愛している」というメッセージを伝えました。私たちも、ペテロと同じ肉の価値観を持った人間です。しかし、イエス様は、私たちを責めず、愛してくださっています。