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2011年7月10日 礼拝メッセージ
情報を左右する肉の価値観
(新約聖書 ヨハネの福音書 16章1〜11節)

私たちは目や耳から入る情報にもとづいて行動します。ですから、情報が間違っていると、間違った方向に向かってしまいます。しかも、私たちは自分が正しいと信じて行動していて、自分の間違いに気づきません。今日の箇所に、そのことが書かれています。


『人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行うのは、父をもわたしをも知らないからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:2〜3)


迫害する人たちが、自分は神に奉仕していると思い込んでいるのは、神を知らないからだとイエス様は言われます。神を知ると言うことは、自分が愛されていること、良い者であることを知ることです。彼らは神を知らない、つまり、神の愛を知らず、自分をダメな者と思っています。自分はダメ(×)だから良い者(○)を目指そうとします。すべての人は、自分をダメだと思い、良く思われることを求めて生きています。


人によく思われようとする時、私たちは本当の自分を隠し、富、持ち物、容姿、地位、・・・といったものでうわべを良くしようとします。しかし、うわべに価値を置くほど、ますます自分はダメだという判断をしてしまいます。うわべのものは必ず滅び、また、自分よりも優れている人が必ずいるからです。また、それによって人と比較し、嫉妬、憎しみ、・・・といった罪を引き起こします。


しかし、神は私たちを良い者と見ておられます。放蕩息子の話で、放蕩の限りを尽くし、父の元に帰ってきた息子を、父は裁かず、それどころか最高のもてなしで迎えました。それは、神が私たちの行いにかかわらず、良い者と見ておられるからです。神は私たちを良くしようとしておられるのではなく、元々価値のある私たちが病にかかり、苦しんでいるのを助けたいのです。そのために十字架にかかられました。


なぜ、人は自分をダメだと思うのでしょうか。私たちは五感を通して入る情報を独自の価値観によって置き換え、自分の価値をダメだと判断しているのです。ちょうど、食べ物を胃や腸で消化して吸収するように、情報を価値観によって「自分はダメ」というメッセージに消化して吸収してしまっているのです。つまり、価値観が問題なのです。それに対し、神は、私たちを常に良い者として見ておられ、私たちの価値をうわべで判断することは決してされません。


私たちの価値観が正しく機能しているか、聖書に照らし合わせれば分かります。私たちは自分は良い者と思っているでしょうか。もし思っていれば、嫉妬することも、落ち込むことも、傲慢になることもありません。よく思われようとしないので、比べる必要もないからです。


また、ぶどう園の労働者への賃金のたとえ話で、1時間働いた者と8時間働いた者の賃金が同じでしたが、もし自分が8時間働いて同じ給与なら、自分の価値をその報酬と結びつけて怒らないでしょうか。はたまた、なにか災いにあった時、罰が当たったととっさに判断しないでしょうか。そして、自分をダメな者だと落ち込まないでしょうか。


そうなってしまうのは、私たちの価値観が人の価値をうわべと結びつけるからです。問題の解決は、私たちの故障した価値観を直すことです。助け主である聖霊様が価値観の誤りを指摘されます。


『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:8〜11)


罪とは神を信じないことであり、義とは行いで得るのではなく、目に見えぬ神を信頼することです。さばきとは、情報を操作する肉の価値観が裁かれることです。


人を憎んだり、愛せないのは、間違った価値観によって、そうさせられているのです。これこそ私たちが戦うべき敵です。そのために、私たちは自分の罪を正直に告白し、神にゆるされる体験を通し、神の愛を知る必要があります。神の愛を知るほどに、自分が良い者だと正しく認識できるようになり、罪に支配されないように変えられていきます。