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2011年7月3日 礼拝メッセージ
世はあなたを憎む
(新約聖書 ヨハネの福音書 15章18〜21節)

『もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。)』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:18〜21)


なぜクリスチャンは憎まれ、迫害されるのでしょうか?イエス様は、価値観がまるで異なるからだと言われました。


この世の価値観は、民主主義、共産主義、資本主義、様々あるようですが、基本になる共通した物の見方があります。それは、全て人の価値をうわべに置くというものです。人の価値がうわべにあるとすると、人はみな、少しでも良いうわべを手にしようと、見えるものを頼って生きていきます。この価値観の根底にあるのは、ダメな者を良くしよう、という発想です。


しかし、神は、人の価値は神のいのち(魂)にあると考えます。神の価値観で生きるとき、人は見えるものではなく神に信頼する生き方をするようになります。この価値観の根底にあるのは、人は良い者だという考えです。良い者がどうしたら良い者だということに気づけるか、というものが神の発想です。


このように、この世の価値観と神の価値観は異なるので、迫害されるようなことが起こるということを肝に銘じておくようイエス様は言われました。


ダメだから良くしよう、という肉(この世)の価値観は、人に罪を犯させています。良くなれるように、見えるところを良くしようと、見えるものを頼るので、互いに比べ、互いに争い、少しでも良いものを手にしようと、盗み、嘘、怒り、裁き合いが生じます。嫉妬や憎しみの感情にいつも支配されています。また、見えるものは一時的なので、失うことへの不安や恐れにいつも苛まれます。これらは全て、ダメだから良くしようとする肉の価値観が生み出す罪です。では、この価値観はどのように誕生したのでしょうか。


肉の価値観は「死」が生み出しています。元々永遠に生きる存在として造られた人間に「死」が入り込んだので、人は生きたいと思うようになりました。「死」には二つの死があります。肉体の死と、霊的な死です。人は肉体の死への恐怖を何とかしようと、見えるものに必死にしがみつこうとします。霊的な死は、空しさを持ち込み、見えるもので心を満たそうとします。


では、死はどのように持ち込まれたのでしょうか。それは、アダムとエバの話にさかのぼります。人は、神に似せて造られました。死は、罪の罰であると聖書にありますが、彼らが罪を犯した結果、人の中に「死」が入り込みました。


では彼らが罪を犯したのは、彼ら自身の中に、罪を犯す要素があったからなのでしょうか。よくある解釈は、彼らは神のようになれる、と蛇にそそのかされ、神のようになりたいという傲慢から実を食べたというものです。人は神に似せて造られましたが、この解釈で考えると、三位一体の神ご自身が互いに競い合い、いつでも互いに蹴落とせる関係にあるということになってしまいます。人と同じ性質を神が持っておられるわけですから、そうなります。またこの解釈は、心理学的な側面で考えると成立しません。なぜなら「○○のようになりたい」という憧れは、今の自分がダメだから良くなろう、という発想から生まれています。ですから彼らがもし、神のようになりたい、という憧れを持っていたとすると、人はダメな者として神に造られたことになります。人は良い者として造られたのに、自分がダメだと考えることはあり得ないのです。


また、もう一つ、よくある解釈に、彼らの自由意志が、悪を選んでしまったというものがあります。この考えは、聖書の記載から矛盾が生じます。なぜなら、蛇は、その実を食べたら、「善悪を知るようになり」と言って誘惑していることから、彼らの中に、「善悪」の判断は無かったということです。そもそも、彼らの中に存在していた自由意志というのは、善の中から自由に善を選べる自由意志でした。彼らの内側に悪があり、それを選択する可能性があるのなら、神は、始めから人に道徳的教育をされたはずです。ところが、神は、高ぶってはならない、悪を選んではならない、と彼らに一言も注意されていません。


これらのことから、彼らが罪を犯し、「死」が持ち込まれたのは、単純に蛇にだまされたと考えるしかできません。彼らは、蛇に「神のようになれる」と言われ、実を食べれば、神とさらに親しくなることができる、と思い実を食べてしまったのです。彼らは、善を選んだつもりだったのに、気がついたら罪を犯させられてしまっていたのです。しかし、たとえだまされたとはいえ、罪は罪です。その責任である、罪の罰「死」は、人が負わなければなりません。


神は、人の中に入り込んだ「死」を、病原菌のようなものだと考えておられます。人は、この病原菌から、様々な罪の症状を発症します。神は罪を、人の本来の姿ではなく、後からついた泥の汚れのようなものだと見ておられます。ですから、神は私たちの病気を治すために、この世に来られ、十字架に掛かられました。別な表現で言うなら、私たちの罪は、良い者についた泥の汚れのようなものです。イエス・キリストは、その汚れを落とすために十字架に掛かられました。もし、罪が私たちの本性(私たち自身)であるなら、私たちは滅ぼされなければなりません。なぜなら、神がこの地上に来られたのは、罪を取り除く為だったからです。しかし、神は私たちを滅ぼすのではなく、私たちに埋め込まれた「死」を滅ぼし(肉体の死は、よみがえりの体を与えられ、霊的な死は神に接ぎ木される)、「死」を持ち込んだ悪魔を滅ぼされました。このことからも、神は、罪は私たちの本性ではなく、後からついた泥の汚れだと考えておられることが分かります。


この世の中は、ダメだから良くしよう、という発想ですべてが成り立っています。しかし、神は、良い者についた泥を落とし、人がさらに良い姿に気づけるようにしよう、と考えておられます。すべては、栄光から栄光へ変えられていきます。これが神の価値観です。私たちは、こうした価値観の違いから、迫害されるかもしれませんが、それは、神の価値観で生きているという証しでもあります。