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2011年6月26日 礼拝メッセージ
友と呼ぶ
(新約聖書 ヨハネの福音書 15章9〜17節)

『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:9〜12)


神の愛の中にとどまるとは、何もせずに受け身でいることではありません。神の戒めを守るという能動的な行動です。神の戒めとは、互いに愛し合うことであり、それによって喜びが満たされるとあります。愛することを、私たちのすべての行動の基準とするように神は言われます。それは、私たちを神から引き離す罠から守られるためです。


1.さばく思いから守られる

私たちを神から引き離す罠となるのがゆるさない心です。ゆるさない心が憎しみとなり、身動きが取れなくなり、神への思いをふさぎます。


2.罪に気づく

ゆるそうとしてもゆるせない自分がいます。しかし、愛することは第一の律法ですから、愛せないことに言い訳はできません。


3.神の愛に出会える

私たちは愛せない罪を神の前に悔い改める時、ゆるされる体験をします。それが神への信頼となり、喜びとなるのです。


『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:13)


ここでの「人」とはイエス・キリストを指します。愛とは、関わりを指します。愛の反対は無関心です。イエス様が十字架でされたように、いのちをささげる以上の関わり方はありません。神がいかに私たちに深く関わっておられるかを示しています。


『わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。私はあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:14,15)


神の戒めを守るなら、神の友となるというのは、戒めを行なおうとするとき、必ず自分の罪に気づき、神に悔い改めることによって神の愛に触れ、神への信頼が育まれるからです。この過程が、行ないにおいて義とされるということです。アブラハムは、その子イサクをささげた時、行いによって義と認められ、神の友と呼ばれました。(ヤコブ 2:21〜24)つまり、友とは、神を信頼し、委ねられることを指します。


さらに、友ゆえに神は御心を示されます。私たちのうちに肉の眼鏡があれば、御心を示されても見えません。すなわち、友とは、肉の眼鏡が外された人を指します。肉の眼鏡が外れるのは、行ないによるのではなく、十字架の愛によります。


『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:2)


『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:16)


神が人を救われます。その目的は平安の実をならせることです。何でも神に求めなさいとイエス様は言われますが、それは、求めて行くうちに、人は最初自分が何を求めているか分かっていないのですが、やがて自分が平安を求めていたことに気づくからです。


私たちは、この地上で何を第一の目標として生きるのでしょうか。神は互いに愛し合うことだと言われます。クリスチャンでない人に対しては伝道することが愛することです。愛することを第一にすることで、自分の罪に気づき、神にゆるされ、神を信頼し委ねる者となることを目指しましょう。神は私たちに平安の実を与えるために、導いてくださいます。