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2011年6月19日 礼拝メッセージ
主はぶどうの木
(新約聖書 ヨハネの福音書 15章1〜8節)

『「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(新約聖書 ヨハネの福音書 15:1)

イエス様は、ご自分をぶどうの木にたとえられました。私たちはその枝で、父なる神様は農夫です。


『「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」 』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:2)

この御言葉を読むと、良い行いができる立派なクリスチャンにならないと、神様から罰を受けて地獄に行ってしまうのではないか、と恐れる人が出てきます。しかし、イエス様が言われた意味はそうではありません。ですから、その真意を理解するために、まず言葉の意味を押さえておきましょう。


実とは、平安を指します。平安は、御言葉を実行し、罪に気づき、神に悔い改め、赦しの恵みを受けなければ、決して実ることがありません。ですから、平安の実は、神を信じる者にしかならない実です。こうした一連の流れを、神の言葉を食べると言いますが、神の言葉を食べようとしない、実を結ばない枝を、神は「取り除く」と言われます。では、「取り除く」とは、どういう意味でしょうか。日本語では、「取り除く」というと切り捨てられるようなイメージを持ちますが、このギリシャ語は、「移動させる」とか「持ち上げる」という意味で使われています。これは、その枝が、実を結ぶように、最善の措置を取るという神の愛を表しています。


次に、実を結ぶ枝は、もっと実を結ぶように刈り込みをする、とあります。これは、試練をぶつけ、平安の実がもっとなるようにするという意味です。平安とは、神様を心から信頼できる心のことです。


いずれにせよ、人にとって一番必要なものを神はご存知です。それは、神を信頼する平安という心です。この実がなるように、農夫である神は、私たちを育てておられます。愛情をもって育てている農夫が、実がならないからと怒って、切り捨ててしまうことがあるでしょうか。それよりも、実を結ぶように、手入れをなさいます。


神はこのように神の愛を伝えるべく、3節であなたがたはもうきよいと言っておられます。

『「あなたがたは、わたしがあなたがたに話した言葉によって、もうきよいのです。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:3)


これは、あなたがたはもう救われているから、心配しなくていい、という意味です。そもそも、枝が幹につながっていること、これが救われるということです。実がなっているかどうか、というのは、救いの基準ではありません。ただ、神は人がただ救われるだけでなく、神の言葉を食べるという一連の行為を通して、そのいのちを豊かに持ってほしいと願っておられるのです。


『「わたしにとどまりなさい。・・・わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。・・・」』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:4,5)

わたしにとどまるとは、神の言葉を食べるという、一連の流れを指します。

『「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:6)


この言葉も、恐ろしいイメージを伝えているのではありません。もし、神の言葉を食べるという一連の流れに取り組まない、つまり神の言葉はどうでもいいと思うなら、枯れてしまいます。枯れるというのは、平安を失うことです。神の言葉を食べるという一連の流れを通して、平安を得なければ、人々の歓心を買うことでしか平安を得るしかなくなります。世の心づかいと富の惑わしの中に引きずり込まれてしまいます。火に投げ込まれるというのは、悪魔の罠に落ちるという意味です。悪魔は、人々が救われないことを望み、救われた人には、せめて、神への信頼を得ないように足を引っ張ってきます。人が、世の心づかいと富の惑わしの虜になれば、行き着くところ、必ず人を赦せないという思いを持つようになります。人を赦せないという思いは、悪魔が人に持たせたい思いです。人を赦せなくなれば、四六時中、相手のことを憎み、相手のことで頭がいっぱいになり、神に目を向けることなどできなくなるからです。


ですから、6節の意味はこうなります。神の言葉を食べることなどどうでもいいと思っていると、神が下さる平安を失います。すると、人々から歓心を得ることでしか平安を手にできなくなり、人の歓心を買おうとすればするほど、人を赦せないという憎しみの火の中に落ちてしまいます。という意味です。


神は、人がそのような苦しみに落ちることのないよう、何度も、わたしにとどまりなさい、神の言葉を食べなさい、と語っておられます。


『「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:7,8)


神への信頼を養う、その第一歩として、神は、何でもいいから神に求めてみなさい、と言われました。自分の願いを求め、神が答えてくださる、ということが分かれば、人は、神に求めよう、と自然に心を神に向けることができます。神は、とにかく、神の言葉を食べる一連の作業をさせるため、人の目が神に向くように導いてくださっています。神は、人の心に、信頼という実がなること、それを何より喜ばれます。