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2011年6月12日 礼拝メッセージ
御霊の働き
(新約聖書 ヨハネの福音書 14章15〜27節)

『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:16,17)


福音とは、一言で言うなら、平安を与えられることです。人はみな平安を求めて生きています。助け主である御霊(聖霊様)がそのために働かれます。今回の箇所から、平安とは何か、そしてどのように平安を与えられるのかを学んでいきましょう。


『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:23)


この御言葉の意味は次の通りです。イエス様を愛するとは、イエス様を信じることです。イエス様を信じる人は、御言葉に従いたいと思うようになります。しかし、御言葉に従おうとするほどに、自分の罪に気づき、赦される神の愛に触れます。そうすると、神はその人の内に住み家をもうけられ、神の存在が心に大きくなります。それにつれて、その人の内には平安が大きくなります。これが福音です。


『このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:25)


聖霊様の働きは、次の3つに凝縮されます。


1.イエス様を信じるように導く

私たちは自分の力で神を信じることはできません。イエス様を信じることができるのは、聖霊様が働いてくださっているからです。

『・・・聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:3)


2.御言葉に従うよう導く

御言葉に従い、救いを達成するよう導かれます。

『そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:12,13)

イエス様を信じることがゴールではありません。神は、私たちがイエス様を信じてさらに平安を得ることを望んでおられます。それがゴールです。救いを達成するとは、救われることではありません。私たちはすでに救われました。救いを達成するとは、平安を与えられることです。ですから、救われるために御言葉を行うのではなく、救われたから御言葉に従いたくて行うのです。しかし、御言葉に従えば、それを実行できない自分が見え、そのことを神に悔い改めると、神の愛に触れ、平安を与えられるのです。聖霊様は、御言葉に従いたいという願いを起こしてくださいます。


3.平安の実をならせる

見えるものを頼ることが罪です。見えるものに頼るほど、見えるものに支配されるようになります。人に頼ると人の言葉が気になり支配されます。私たちが心につらさを感じるのは、見えるものに支配されているせいです。私たちはみな、見えるものに支配された罪の奴隷なのです。神は罪の奴隷状態の私たちを解放し、平安を与えようとしておられるのです。


『あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 6:9,10)


パウロは、相続という言葉を、救いという意味と、平安を得るという意味との2つに用いています。ここでは平安を得るという意味で使っています。ここに書いてある悪い行いは、みな見えるものにしがみついている結果の行いです。私たちがいかに見えるものにしがみついているかを気づかせるためにこのように書いてあります。続けてこうあります。


『あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:11)


義には二つの意味があります。イエス様を信じて救われることを信仰による義と言います。義とされた私たちは、罪と戦い、神に近づき、神の友となることで、行いによる義を与えられます。これが平安であり、救いの達成です。


『すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:12)


パウロは見えるものに支配されなくなったと言っています。人のつらさは、見えるものにしがみつき、それに支配されるところから生まれます。しかし、見えるものではなく、神に信頼するようになること、これが平安です。


『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:26,27)


神が与えたいのは、何者にも支配されない自由のある平安です。それは、聖霊様の助けによるのです。なぜなら、神を信頼することからくる平安は、私たちの力では得ることはできません。私たちが見えるものにしがみつく罪に気づき、それを手放すことができるのも、すべて、聖霊様が助けてくださるからできることなのです。助け主、聖霊様がともにおられ、助けてくださることは何という恵みでしょうか。


『わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:18)