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2011年6月5日 礼拝メッセージ
心を騒がせてはならない
(新約聖書 ヨハネの福音書 14:1〜14)

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:1)


ユダが出て行き、ペテロの裏切りをも預言されたイエス様は、続けて弟子たちに語られます。それは、神を信頼しなさいというメッセージです。後にも詳しく述べますが、それがすべての問題の解決だからです。


2〜4節では、イエス様が天で私たちのために神の家を整え、再び迎えに来られること、すなわち再臨されることを語っておられます。


『・・・わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰ひとり父のみもとに来ることはありません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:6)


イエス様を信じる以外、救いの道はありません。よく言われる考え方として、富士山の登り口はいくつかあっても、行き着くところは同じであるように、宗教も入口がいろいろあるけれど、行き着く神は同じだというものがあります。これは全くのでたらめです。イエス・キリストによる救いと、他の神の説く救いの内容は、全く違います。聖書には、イエス・キリストを救い主として信じるだけで救われるとあります。これに対し、他の宗教は、徳を積む、あるいは他の行ないによって救われると説きます。また、キリスト教は排他的だと言われます。しかし、真理とは一つしかありませんから、排他的で当然です。あれもこれもよしであれば、それは真理ではないのです。


『・・・わたしを見た者は、父を見たのです。・・・わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。・・・』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:9,10)


イエス様のこのことばは、三位一体の神を表しています。神は、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊様(御霊)という3つの人格を持ち、それぞれが役割を担い、一つの意志で行動されます。ですから、イエス様のことばは神の言葉であり、御霊の思いはイエス様の思いです。


『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしのないによって求めることは何でも、それをしましょう。・・・』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:12〜14)


イエス様がこれほどまでに、私たちに求めさせるのは、私たちの信仰を訓練するためです。「心を騒がせず神を信頼する」ためには、訓練が必要であり、求めることはその第1歩なのです。訓練の内容は次の3つです。


1.不信仰に気づかせる

私たちが求めるのは、必要が生じるからです。それはもちろん、問題を解決してほしいという必要です。そのとき、主は私たちがどこまで主を信頼するか、信仰を試されます。その時、私たちはつぶやいてしまう自分に直面し、自分の不信仰に気づくのです。

『私の兄弟たち。様々な試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:2,3)


2.あきらめない信仰を育てる

神は、求めたものをすぐには与えません。それは、私たちのうちに忍耐を育てるためです。


3.御心しかならないことを教える

求めた結果、そのとおりに与えられる場合とそうでない場合があります。求めてみて、はじめて、私たちは神の御心を知ります。

『願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』(新約聖書 ヤコブの手紙 4:3)


このように、神は私たちが自分の問題を通して神に求めることで、信仰を訓練され、それによって私たちのうちに神への信頼を育てようとしておられます。


おさらいになりますが、クリスチャンは、イエス・キリストを救い主として信じているので、イエス・キリストを信じない罪を赦され、死の問題は解決され、永遠のいのちを与えられ、救われています。これは決して取り消されない救いの恵みですから、もはや心配する必要はありません。聖書は、こうした救いの恵みのことを、「救いを得ている」と表現しています。私たちは、これから救われるのではなく、もうすでに、神によって救って頂いたのです。これは、神の木に接ぎ木され、神との関係が回復したことを意味します。


『「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」』(新約聖書 ペテロの手紙第一 1:8,9)


しかしそれは断たれていた神との関係が回復されただけで、信頼関係はまだありません。神の側は私たちを信頼してくださって、友と呼んでくださっていますが、私たちの側が神を十分に信頼できていません。私たちの側が、神を心から信頼できるようになってこそ、本当の信頼関係が築けるのです。これはちょうど枝が木に接ぎ木されただけの状態で、つながってはいますが、これからさらに深く強く根差していく必要があるようなものです。イエス様をどこまで信頼できるか、神への信頼が増し加えられるほどに、私たちは、キリストと同化していくのです。聖書は、キリストと同化していくことを、「救いを得る」と表現しています。


『生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:2)


「救いを得る」というと、救われるために、みことばを実行していかなければならないように感じられてしまいます。しかし、そう捉えるのは、私たちの肉の価値観のせいです。聖書は、神との信頼関係が深まることを、「救いを得る」と表現しています。これから、時間を掛けて、得ていくものなので、このような未来に起こることとして表現されています。


人は本来神の言葉しか食べられないように造られました。他のものを食べても成長しません。では、神の言葉を食べるとは何でしょうか。それは、御言葉を実行しようとしても、それができない自分の罪に気づいて、神に悔い改め、赦される経験をすることです。私たちは、神の言葉を食べ(信じ)ようとすると、肉の価値観が邪魔をして食べ(信じ)られません。これが、不信仰の罪です。この罪を、神に差し出せばよいのです。すると、神は、赦しの恵みを与えてくださいます。これが、神の言葉を食べるということです。人は、神の言葉を食べることを繰り返すことにより、救いを得る(神への信頼が豊かになる)のです。


私たちが、神への信頼を築いていくためには、まずはすべてのことを神に祈り求めることから始めましょう。人は、神に求めながらも、本当に大丈夫だろうか、と心配してしまいます。神は、大丈夫だと言われているのに、信じられないのです。それが不信仰です。その罪に気づき、それを神に差し出し、赦される経験をすると、神への信頼は築かれていきます。ですから、不信仰の罪に気づくためにも、神に求めることから始めましょう。