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2011年5月29日 礼拝メッセージ
互いの足を洗いなさい
(新約聖書 ヨハネの福音書 13:12〜38)

弟子たちの足を洗い終わったイエス様は、ご自分がなぜそうしたかわかるかと問いかけられます。そして、こう言われました。


『「・・・主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

・・・しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なう時に、あなたがたは祝福されるのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:14〜17)



私たちは個人個人別々に生きているようでも、たましいは一つにつながっています。聖書の他の箇所にも、私たちはキリストの体の各器官であり、補い合い、助け合い、仕え合う関係だとありますが、イエス様はその模範を示されたのです。


しもべはその主人にまさらず…と続けて言われたのは、私たちに仕えることで自分を良く見せよう、偉くなろうという邪心があることを主はご存じだからです。他の箇所でも、良いことは隠れたところで行ないなさいという意味の御言葉があります。行いをするのは、自分の評価を高めるという報酬のためではないことをわきまえているなら祝福されます。その祝福とは、神への信頼が増し加わることです。


イエス様は続けて、弟子たちの中に裏切る者がいることを明言されます。それはユダのことですが、イエス様は彼を選んだ者ではないと表現されました。ユダは弟子として行動していましたが、イエス様を救い主として信じていませんでした。つまり、救われていなかったのです。


ここで、救いについて確認しておきましょう。私たちは、自らイエス様を信じることができたのではなく、神がまず人を選び、信仰を与えられます。信仰を与えられた者は、やがてその信仰を意識し、イエス・キリストを救い主として明確に信じ、救われます。救われた者が、救いを取り消されることは決してありません。救われた後、どんなに悪い行いをしようと、救いが行いによって得たものでない以上、行いによって失われることもないのです。


イエス・キリストを救い主として信じる時、それまでイエス・キリストを信じてこなかった罪を悔い改め、ゆるされます。この罪は神を信じない罪Aであり、救いのために問われるポイントです。罪にはもう一つあります。それは、神の言葉を信じない罪Bです。救われた後、すべての人が罪Bと向き合っていくことになるのですが、罪Aと罪Bを混同すると、自分は罪Bを犯すから救われていないと勘違いしてしまいます。イエス・キリストを救い主として信じる者は、罪Aをすでに赦されているので、救われており、救いは取り消されません。そのことをきちんと把握しておきましょう。


罪Bは神の言葉を信じられないことであり、神の言葉ではなく、見えるもので心を満たそうとするので、つらさが生じます。これを不信仰の罪とも言います。行いの罪はすべて不信仰の結果です。私たちは問題にぶつかる時、つらさが生じた時、見えるところの行ないが修復されることが解決だと勘違いしていますが、本当の解決は、神の言葉でなく見えるもので心を満たそうとする自分に気づき、悔い改めることです。私たちの心は神の言葉を食べることで真に満足するように造られているのです。


『・・・わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:20)


イエス様が遣わす弟子たちを受け入れる者は、イエス様を受け入れ、さらに父なる神と聖霊様を受け入れることを意味しています。


ペテロはヨハネに合図して、イエス様に裏切る者はだれか尋ねさせました。すると主は、ヨハネにだけ教えられました。さらに、ユダ本人にだけわかるような言葉かけをし、最後まで悔い改めのチャンスを与えておられます。私たちも兄弟姉妹に罪を指摘する時、これに倣い、公の場ではなく、二人だけのところで話すよう他の箇所にも書いてあります。


27節にサタンがユダに入ったと書かれていますが、サタンが入るとは、サタンが願いを与えることを指します。神も私たちに願いを与えられますが、サタンも願いを与えることで私たちに働きかけるのです。その媒体となるのが肉の価値観です。


イエス様は、ユダに向けて彼の裏切りを分かっていることを伝え、悔い改めのチャンスを与え続けますが、ユダはついに裏切りを実行に移すために出て行きます。その時、主はこう言われました。


「今こそ人の子は栄光を受けました。・・・」 この後、ユダが裏切り、残された弟子たちも裏切ります。みなが困難の中に投げ込まれます。しかし、人が困難にぶつかる時というのは、人が神に近づく機会となり、神に信頼しなければ困難を乗り越えることはできません。困難を通して、人は神への信頼という宝を手に入れるのです。人が神を信頼すること、それが神にとっての栄光です。


さらに主は、「互いに愛し合いなさい」と言われます。それはさばかないことです。しかし、私たちはさばいてしまいます。主のことばの意図は、さばいてしまう、愛せない自分をみつけ、主に助けを求めることです。


「わたしが行くところに、あなたは今はついてくることができません」と言われたペテロはイエス様のためにいのちも捨てると言いますが、イエス様は彼が裏切ることを預言されます。私たちは自分の本当の姿を分かっていません。ペテロは、主が捉えられ、十字架に付けられることになり、自分の身も危ない状況になり、はじめて自分の罪に気づきます。困難は、本当の自分に気づかせてくれるチャンスです。本当の自分を知ったなら、主の前に差し出し、変えていただくことができるのです。