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2011年5月15日 礼拝メッセージ
神からの栄誉よりも人の栄誉を愛したから
(新約聖書 ヨハネの福音書 12:34〜50)

『イエスは彼らに言われた。「…(中略)…やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子供となるために、光を信じなさい。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:35,36)


私たちは何を目指して生きているのでしょうか。神が人を造られた目的は、人と信頼関係を築くことです。私たちは神との信頼関係を築くために、生涯かけて、神に近づき、神のことばを信じて食べるということをしながら、生きていくのです。それが、光である神を信じるということです。


『イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。…(中略)…彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:37〜40)


人が神を信じられるのは、人の努力によるのではありません。神が目を開いてくださったからであり、すべて神の恵みなのです。救いが人の行ないによるのでなく、神の恵みによるものなら、人の行ないによって救いを取り消すこともできません。


『指導者たちの中にも、イエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白しなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:42,43)


私たちは、つらさの原因を勘違いしています。人からの悪口や、困難な出来事のせいだと思っています。しかし、悪口を言われても、困難な出来事にあっても、つらさがなければ、その人にとって問題ではありません。私たちがつらくなる原因は、この聖句にあるように、神からの栄誉よりも人の栄誉を愛していることです。私たちのたましいは神のいのちの一部であり、神につながっています。私たちのたましいは愛されることを求め、その欲求は造られた神によってしか満たすことができません。にもかかわらず、神のことばを食べずに人からの言葉を食べようとするので、つらくなるのです。人からほめられ、評価されれば、自分は愛される価値ある者だと受け止めるからです。


『さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。 私はあなたがたには乳を与えて、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:1〜3)


肉に属するクリスチャンは、乳、すなわち人の言葉を食べます。人の言葉を食べる道具は、富と世の心遣いで、恐れを伴います。一方、御霊に属するクリスチャンは固い食物、すなわち神のことばを食べます。それによって恐れは締め出され、平安が与えられます。しかし、神のことばを食べる―信じるには、相当な戦いが必要です。戦いの相手は自分自身の不信仰です。


最初にも触れたように、私たちは神のことばが食べられる(信じられる)ことを目指しています。神のことばを食べずして何をしてもむなしいのです。私たちは自分のつらさを、自分の知識、経験によって、出来事のせいだと思い込んでいますが、原因はもっと単純で、神のことばを食べていないせいです。ですから、正直に自分の不信仰を認め、神のことばを食べていけばよいのです。神は、私たちが神のことばを食べられるよう、助けてくださいます。


神は私たちを切り捨てたりなさいません。十字架にかかってまで救った私たちを、行いができないからといって、御言葉を信じられないからといって、切り捨てるようなことはなさいません。神は私たちを愛しておられ、御言葉を信じられるまで、面倒を見てくださいます。ですから、私たちは神の愛の中で安心して、信じる戦いに取り組んでいきましょう。