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2011年4月24日 礼拝メッセージ
よみがえられた主
 (新約聖書 ペテロ第一の手紙 1章3〜9節)

イエス・キリストの復活は、キリスト教の柱となる事実です。復活を信じることで、希望を持つことができ、多くのことが見えてきます。


『・・・神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現わされるように用意されている救いをいただくのです。』(新約聖書 ペテロ第一の手紙 1:3〜5)


復活を信じることで見えること、それは、死は終わりではないということです。地上での人生は通過点であり、その先にあるゴール、天において神が信じる者のために用意されたものを私たちが受け取ることができるということです。


『そう言うわけで、あなたがたは多いに喜んでいます。今は、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われの時に賞賛と光栄と栄誉に至るものであることが分かります。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』(新約聖書 ペテロ第一の手紙 1:6〜9)



すべての人に共通する試練、それは死の問題です。誰もが避けて通ることのできない、そして人の力では解決できない問題です。しかし、イエス・キリストの復活を信じるなら、死の問題、そして今目の前にあるさまざまな問題、どちらの試練に際しても、平安の中で喜ぶことができ、乗り越えることができます。


復活は常識からすると信じがたい奇蹟です。聖書は、そのように人の思い込みをくつがえし、苦しみから解き放ってくれるのです。人の思い込みの具体例を次に2つあげます。


1.愛される努力が必要

私たちは、良いことをたくさんして徳を積むことで愛されると思い込んでいます。しかし、聖書には、神は私たちをすでに愛しているとあります。


『しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:8)


被災地の復興には、多くの犠牲が伴うように、罪によって荒れ果てた心の復興にも犠牲が必要です。私たちの心の復興のために、イエス・キリストが犠牲を払ってくださいました。罪は病気であり、人はみな罪を犯す病人です。医者である神は私たちをあわれみ、私たちが神のもとへ行くなら、私たちを責めるのではなく病を癒してくださいます。しかし、私たちは良い行いをしないと愛されないと思い込んでいるため、取りつくろい、隠します。そうすると神は何もできません。隠さず、助けを求めれば、神との信頼関係が始まります。私たちに必要なのは、愛される努力ではなく、愛する努力です


2.信頼される努力が必要

イエス様はある時、取税人ザアカイに初めて会ったにもかかわらず、今日あなたの家に泊まると言われました。ザアカイは今で言うやくざで、皆に嫌われていました。私たちが人の家に泊まるという時、信頼できない人の家に泊まることはしません。イエス様が彼を信頼しておられることを知り、彼は悔い改めました。ザアカイの家に泊まられたように、神は私たちの心の中に住まわれると聖書にあります。神は私たちを信頼してくださっているのです。信頼されていると気づくと、人は罪、重荷を神に表すことができます。私たちに必要なのは、信頼される努力ではなく、神を信頼する努力です。


次のことばは信頼すべき言葉です。

『「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。」』(新約聖書 テモテ第二の手紙 2:11,12)


私たちは、罪に支配され、奴隷となっています。しかし、イエス・キリストを信じることで、罪の奴隷状態から解放され、自由になります。「否む」とは信頼しないことです。神は今すでに私たちを愛し、信頼してくださっています。私たちの方でそれを拒否するのをやめ、神を信頼していきましょう。