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2011年4月17日 礼拝メッセージ
石を取りのけなさい
(新約聖書 ヨハネの福音書 11章36〜57節)

死んだラザロが復活するというイエス様のことばを人々が信じようとせず、その不信仰にイエス様が涙を流された場面からの続きです。その涙の意味もわからず、こんなことを言うものもいました。「盲人の目を開けたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」このつぶやきに対し、イエス様はまたも心のうちに憤りを覚えられます。私たちのつぶやきが、神を憤らせ、悲しませるということを忘れてはなりません。つぶやきこそ、クリスチャンが最も避けるべきことです。


ラザロの墓はほら穴で、入口に石が立てかけてありました。イエス様は「その石を取りのけなさい。」と言われました。さらに先へ進み、復活して布を巻かれた状態のラザロが出てくると、「ほどいてやって、帰らせなさい。」と言われました。ここから学ぶことができるのは、神は何でもできる方ですが、何でもされるわけではないということです。具体的には、人にできることはされないのです。勉強もせずに、テストで100点がとれるようにと祈っても聞かれません。神は、私たちが問題にぶつかったとき、知恵を与えてくださいます。(ヤコブ1章5節参照)ですから、私たちは祈りながら、できることはやっていく必要があります。神は、私たちにできないことをしてくださいます。


石を取りのけなさいというイエス様のことばを聞いて、マルタはこう言いました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」この時の彼女は、あきらめ、失望、一言で言えば、「つらい」心境にあります。彼女はなぜつらいのでしょうか。兄弟ラザロが死んだからではありません。


イエス様は彼女に言われました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」もし彼女がタイムマシンに乗って未来を見たなら、決してつらくはならず、このように言わなかったでしょう。つらさは出来事のせいではなく、過去と今しか見ないからです。御言葉を信じて未来を見るなら、つらさから解放されます。私たちにとってのタイムマシンは信仰です。


『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1)


イエス様は皆の前でこのように祈り始めました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。…」この時ラザロはまだ復活した姿を現していません。それでも、イエス様は信仰によって未来を見てラザロの復活を確信したので、過去形で祈ることができるのです。この祈りは、私たちのための模範でもあります。祈ったことはすでに受けたと信じなさいと御言葉にあるように、実際はまだ手にしていなくても、すでに得たと信じて祈りましょう。


私たちは普段の生活でも何気なくそれをしています。例えば、車を購入する契約をすると、車をまだ得ていなくても、「車を買った」と言い、心の中で車に乗って過ごすことを想像します。神との約束についても、それと同じことをすればよいのです。信じるとは、聖書の約束にサインすることです。私たちは契約した車が来ないとは決して思いません。聖書のことばはどんな会社よりも実績があり、信頼できるものです。


祈り終わるとイエス様は大声でこう言われました。「ラザロよ。出てきなさい。」ラザロは私たち自身でもあります。私たちは神を離れて罪の中で死んでいたのに、生き返らされたのです。それなのに死んだままの生活をしているのです。


ラザロは体中に布を巻かれた状態でした。私たちも、自分の罪、弱さを隠して見栄えを良くしようとしてきました。しかし、イエス様は私たちが本来受けるべき罰を十字架で負ってくださり、私たちは罪を赦されました。だからもうおびえて隠す必要はありません。そして、神がいつも共におられるので、失望する必要はありません。イエス様を信じた者に対して、救いが取り消されることは決してありませんから、恐れる必要もありません。イエス様のことばは、もう心配しない生きなさいというメッセージです。