>
ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2011年3月27日 礼拝メッセージ
目指すゴールは何?


ウサギとカメの話で、ウサギが負けたのは、カメばかり見ていてゴールを見ていなかったからでした。私たちも、目指すべきゴールを見ないで、人のことばかり気にしているなら、人生に負けます。 

人生において、道を選択するには、ゴールが必要です。ゴールが分かっていれば、どの道を選択すればいいか分かります。しかし、人は明確なゴールが分からないでいます。ゴールが見えないと、人生はむなしく、迷いとつぶやきに満ちたものとなります。

神は聖書の中で私たちに明確なゴールを教えています。


『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・』(新約聖書 ヘブル人への手紙 12:2)

『こういうわけで、もしあなたがたが、キリストともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。・・・』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:1)

『キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:14)


「イエス様から目を離さない」、「上にあるものを求める」、「神の栄冠を得るために目標を目指す」、と表現されていますが、これらが聖書の教えるゴールです。では、その実体は何を指すのでしょうか。それは、繰り返し学んでいるとおり、神への信頼を指します。


『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 14:27)
 
『・・・わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:10)


人は、神を心から信頼できると、何を手にするのでしょうか。それは、平安です。イエス様が来られたのは、私たちがこの平安を豊かに持つためだとあります。聖書は、この平安のことを、安息の地とも表現しています。これが、クリスチャンの目指すべきゴールです。


さて、旧約聖書には、「安息の地に入る」出来事が記されています。その出来事は、イエス様が語られた上記のことばを理解するために、大変重要な役割を果たしています。


エジプトで奴隷として生活していたイスラエルの民は神に助けを求めました。神は彼らを助け出し、安息の地を目指して上らせると言われました。イスラエルの民が神に助けを求め、海を渡って奴隷生活から解放されたように、私たちもイエス・キリストを信じて救われ、死から解放され(永遠のいのちを与えられ)ました。さらに、イスラエルの民はそこから安息の地を目指したものの、実際に入ることができたのはヨシュアの家族だけでした。


Tコリント10章1〜12節に、イスラエルの民が安息には入れなかった理由が描かれています。彼らが安息の地に入れなかったのは、罪(不信仰)のためです。罪とは、神を信頼しないことであり、私たちの真の敵です。つまり、ゴールを目指すには罪と戦うことが必要なのです。イスラエルの民は、この敵と戦いませんでした。ですから、彼らはバプテスマを受け、救われてはいましたが、安息の地に入ることなく滅ぼされました。(誤解のないように言いますが、滅ぼすとは、永遠の滅びに行ったということではありません。平安を得られなかったということです。せっかく救われていても、平安を手にすることなくこの人生を終えるなら、それはむなしいものです。)


イスラエルの民が戦わなかった罪の根底には「恐れ」があります。恐れによって彼らはむさぼり(見えるものに支配される)、姦淫(つらさを見えるもので解消する)を犯し、主を試みる(肉の価値観に支配されてつぶやく)という罪を繰り返し、神に信頼しようとはしませんでした。では、私たちはどうでしょうか。神を信頼すると言いつつ、人の言葉で一喜一憂しているのではないでしょうか。私たちが進むべき方向は、罪と戦い、そこから神への信頼を増し加えられ、平安をいただくという道です。


上の箇所の手前、9章23〜27節に、罪との戦いに最も効果的な道が書かれています。それは、福音を語ることです。


『私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受けるものとなるためなのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 9:23)


福音のために生きることが神への信頼とどう関わってくるのでしょうか。福音を伝えようとするとき、どうしても私たちは人の顔を恐れ、神を信頼できないという自分の罪にぶつかります。罪の根底にあるのは恐れであり、それが神への信頼を妨げ、見えるものを頼らせるのです。自分のうちに恐れがあると気づいて祈り、罪ゆるされることを通して神の愛に触れ、それが神への信頼となります。ですから、自分のうちなる恐れに気づきやすい伝道が、有効なのです。


罪と戦わなかった民は滅ぼされました。これは、永遠の滅びという意味ではなく、これ以上地上にいても意味がないので天に引き上げられたということです。彼らも救われているのですが、平安というゴールには到達できなかったということです。


『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 10:13〜14)


偶像礼拝と戦う、すなわち、罪と戦い、ゴールを目指してこそ、備えられた脱出の道が見えてきます。神を信頼し、平安を得る、というゴールが見えていなければ、私たちは、試練から脱出したのかどうかも分かりません。私たちに必要なのはゴールを明確にし、それを目指すことです。