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2011年3月6日礼拝メッセージ
『わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです』(新約聖書 ヨハネの福音書 10章1〜10節)

イエス様は、ご自分と人を牧者と羊にたとえて語られました。羊は牧者の声を聞き分け、牧者についていきます。牧者でない者にはついていきません。人は神の愛しか食べられないように造られています。ですから、潜在意識においては本物を知っているのです。ところが現実は、死の恐怖に惑わされて、恐れから逃れるために、神ではなく見えるものにしがみついています。しかし、この世にあるものは何一つ恐れを消すことができず、何を手にしても満足できません。そして人は、自分が何を欲しているのか分からなくなっています。


今回のタイトルにもなっているイエス様のことばは、ご自分が来られた目的を明確に表しています。これほど的を得て書かれているところは他にありません。これがイエス様の来られた目的であるということは、すなわち、これが私たちが目指すべきゴールであるということです。そして、私たちが与えられた人生においてこれを目指すのでなければ、神とかみ合わない、ずれた生き方になります。では、イエス様が語られたこの言葉の意味を深く味わっていきましょう。


羊がいのちを得るとは、私たちがイエス様を信じて永遠のいのちを得ることです。では、その永遠のいのちを豊かに持つとはどういうことでしょうか。イエス様を信じて救われた者は、イエス様という木につながれた枝です。枝がそのいのちを豊かにしようとするなら、私たちはイエス様との関係を密にする必要があります。そうすると枝には実がなります。信頼という実です。自分を神に委ねられるようになるということです。


いのちを得るとは、イエス様と同じ家に住むようになることとも言えます。同居していても、口を聞かず、交わらないこともできます。しかし、ともに住んでおられるイエス様に何でも打ち明けていくことで、信頼関係を築くこともできます。それがいのちを豊かにすることです。


しかし、多くのクリスチャンがここで陥ってしまうパターンがあります。クリスチャンになってもわたしたちは肉の価値観を持っているので、人の賞賛を得ようとする古い習慣に従って、その願望をかなえるために神に求め(利用し)てしまうのです。人の賞賛ではなく神との信頼を得るために、どうしたらよいのでしょうか。3つのポイントを挙げます。


1.つらくなったら人に同情を求めるのをやめる

人がつらくなる理由は、大きく二つあります。一つは罪責感によるつらさ、もう一つは罪(恐れ)(世の心遣い、富の惑わし)と戦って勝利しようとする時のつらさです。後者はよいつらさですが、前者は、人をさばいたり、愛せないことによるつらさです。このとき、人に同情を求めると、その人は神から離れていきます。しかし、神に助けを求めるなら、神の恵みを体験し、それが神への信頼となります。


2.問題にぶつかったとき、まず神に求める


3.自分が何を欲して生きているのかに気づく

人生の目的を取り違えると大変なことになります。それを学ぶことができるのが、マタイ25章14〜30節の天の御国のたとえです。主人がしもべたちを呼んで財産(タラント)を預け、旅に出かけ、帰ってくると、それをどれくらい増やしたか清算します。財産を増やしたしもべに対して、主人は喜び、さらに多くのものをまかせますが、財産を使わず土の中に隠していたしもべを怠け者と呼び、せめて銀行に預けておくべきだったと言って、与えたものを取り上げ、暗闇に追い出してしまいました。このたとえはどういう意味でしょうか。


神は人の行ないを評価する方ではありません。ですから、このたとえは、頑張っただけ報われるということを意味しているのではありません。人はもうすでに行いにかかわらず神に愛されています。ですから、ほめられ、愛されるために生きているのではなく、愛されているからそれにこたえるために生きているのです。神の愛にこたえるとは、良い行いをすることではなく、神を信頼することです。


主人(神)が呼んだしもべとは、神がいのちを与えたもの、つまりクリスチャンです。神はご自分の財産(タラント)をクリスチャンに預けました。ですから、タラントは生まれ持っている能力ではなく、賜物です。賜物の中で、神の国で唯一所有が認められているものは愛です。なぜなら、それ以外のどんな賜物も、天において必要ないからです。愛とは以前Tコリント13章から学んだように、神を信頼する心であり、信仰で支えられるものです。つまり、神は私たちに信仰を与え、私たちが与えられた信仰を用いて神への信頼を増し加え、愛という実をならすことを望んでおられるのです。


信仰には2つの働きがあります。一つは神の存在を確認する働き、もう一つは、神への信頼を助ける働きです。神の存在をすでに確認しているクリスチャンが信仰を用いるとは、こういうことです。神への信頼を妨げるもの、それが「恐れ」であり、恐れと戦うことなしに、信頼は築けません。ですから、戦う武器として与えられている信仰を用いて、恐れ(罪)や問題に対して逃げずに戦うことです。具体的には、恐れに際し、神に助けを求めて祈り、神の助けによって恐れに勝利することです。


ですから、タラントを土の中に隠したしもべは、人生において信仰を用いることなしに罪と戦わず、罪に身を任せる生き方をしていたことを意味します。銀行に預けておけばまだましだったと言われていますが、銀行とは今も昔も、お金を預けるのに最も安全なところとされています。銀行にたとえられているのは、信仰を保つのに最も安全な場所、つまり教会です。礼拝さえ守っていれば、少なくとも御言葉を聞き、少しずつでも神への信頼が増し加わっていたはずだということです。また、暗闇に追い出されるとは、救いが取り消されるということではありません。神を信頼しなければ、常に恐れがあるのですから、闇の中を生きるのと同じだという意味です。


イエス様の私たちに対する目的であり、私たちが目指すゴールである神への信頼を得るために、つらさから逃げずに向き合って、神に祈り求めましょう。