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2011年2月27日礼拝メッセージ
『盲人U』(新約聖書 ヨハネの福音書 9章17〜41節)

イエス様が安息日に盲人の目をいやされたことで、パリサイ人たちの間に分裂がおこり、彼らは、いやされた人から再度、イエス様のことを聞き出そうとします。しかし、彼らは盲人だった人の話を信じようとせず、今度は両親を呼び出して話を聞きますが、それでも納得できず、また盲人だった人を呼び出しています。


こうした行動は、パリサイ人のみならず、私たちすべてに通ずる思考パターンを表しています。つまり人は、はじめから答えを決めてかかり、答えに合う情報を引き出そうとするのです。だから、いくら話を聞いても自分たちの答えと違うのでらちが明かないのです。自分の考えを優先していることになりますが、これが罪の本質です。


私たちは自分に対するセルフイメージも、幼い時から決めていて、人生の脚本を書き、それに従って行動していると言われています。すべての人に共通しているセルフイメージ、それが、自分は愛される価値がないというイメージです。この否定的なセルフイメージを変えるために世の中のカウンセリングは、新しい情報を提供しようとしますが、一時的には効果があっても持続しません。人を本当に変えるのは、理屈ではなく愛だからです。ダメな自分は頑張らなくては愛されないと思い込んでいる人に必要なのは、何もしなくても愛される経験です。それは神だけが与えられるものです。


パリサイ人たちに再三問いただされた盲人はこのように答えました。「あの方が罪人かどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」いくら理屈を言っていても、事実が伴わなければ意味がありません。キリスト教には事実があります。事実があったからこそ、激しい迫害を通っても、絶えるどころかむしろ勢いを増して、世界中に広まったのです。その事実とは、神の愛に触れて変わった人々の現実です。


ついには追放されてしまった盲人をイエス様は見つけ出し、ご自分のことをさして「あなたは人の子を信じますか」と言われました。人の子とは、キリスト(救い主)を意味します。それに続くのが次の箇所です。


『…イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えないものが見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「わたしたちも盲目なのですか。」 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『わたしたちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 9:39〜41)



ここでイエス様が言われた「目の見えない者」「盲目」とは、自分に罪があると気づいている人のことです。それに対し、「見える者」「目が見える」と言う人とは、自分には罪がないと思っている人のことです。神から見て罪は病気です。病気が重い人ほど医者を必要とするように、罪を自覚する人ほど、神を求めます。神を求める人はゆるされ(癒され)ます。それに対し、罪はないという人は神を求めないので、ゆるされません。


人にとって最大の悲劇は、自分の状態に気づいていないことです。誰もがひどい罪の病気にかかっていながら、それほどひどくはないと思い、神を求めるに至らないのです。それは罪をうわべで捉えているからです。法で裁かれる、あるいは道徳的に悪いとされる罪の行為に至らなければ、自分は罪人ではないと思いがちですが、神の前にはそうではありません。神の目からすれば、私たちの心に恐れがあること自体、罪なのです。それは、恐れが、神を信頼せず、見えるものに価値を置くことによって生じるからです。


私たちクリスチャンは、イエス様を信じて救われました。神はさらにもう一つの救いの恵みを私たちに与えたいのです。それは恐れからの救いです。イエス様を救い主と信じて救われても、まだイエス様を信頼できず恐れをもつ私たちが、神を信頼し、恐れから解放される恵みです。この恵みは、罪を赦される体験の積み重ねで与えられます。そのために、まずは罪に気づくこと、自分の現実を知ることが重要になります。罪に気づくのに良い方法の一つは、伝道することです。伝道しようとするとき、私たちはどうしても自分の弱さを知らされ、罪(神を信頼できない思い)と戦う必要に迫られ、神に助けを求めることで、神の恵みを知ることになるからです。


私たちの問題は、神を信頼できないことです。自分の中に恐れがあることを正直に認め、神に助けを求めましょう。