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2011年2月20日礼拝メッセージ
『盲人』(新約聖書 ヨハネの福音書 9章)

『またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 9:1〜3)


弟子たちのものの見方はそのまま私たちのものの見方です。うわべで人の価値を判断します。ヨハネの福音書を通じて神が語っておられるのは、人の価値をうわべと結びつけるなということです。しかし、私たちはうわべで人の価値を判断していることをさばくことによって証明しています。ここに人を苦しめる罪の本質があります。罪とは神を信頼しないで見えるものを信頼することです。神はすべてをご自分に委ねるよう言われますが、私たちはそのことばに信頼できず、見えるものにしがみついて安心を得ようとします。その象徴が富です。私たちはこの物差しを変えない限り、不自由です。


『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:2)


神の御心を知るためには、心を変える必要があります。行いを変えるのではありません。心を変えるとは、この世の物差しで考える(うわべで人の価値を判断する)のをやめることです。


『また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 5:15〜17)


人間的標準とは、うわべに価値を置く物差しのことです。これによって、人は見える所をよくしてよく思われようと頑張ります。この物差しを止めると、全くものの見え方がかわってきます。盲人を見て、罪のせいだというのではなく、神の栄光が表れることを期待する見方ができるようになります。


『・・・イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。』(新約聖書 ヨハネの福音書 9:4〜7)


イエス様はなぜこの盲人をただ癒すのではなく、敢えて泥を塗り、シロアムの池で洗い流すよう命じられたのでしょうか。それはこの人が神を信頼するかを試したのです。盲人は神のことばを適当にあしらわず、信じてその通りにし、いやされました。見えるものではなく、神に信頼するとはこういうことです。次の聖句も神への信頼について語っています。


『だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』(新約聖書 マルコの福音書 11:24)


すでに受けたと信じる、それは信頼できない罪との戦いです。ダビデがゴリアテを倒すことができたのも、神が必ず勝たせてくださると信じることができたからです。このことは、心に平安をもたらすのは、見えるものを何とかすることではなく、神への信頼だけだということを示しています。


イエス様が盲人を癒されたのが安息日だったことで、パリサイ人達は、イエス様が何者かと考えるのではなく、行いが間違っているから罪人だとレッテル貼りしました。パリサイ人達は見える所、立派な行いをしていたかもしれませんが、どんなに良いことをしても愛がなければ神の前には何の意味がありません。


『たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:1〜7)



私たちは愛とは何かを勘違いしています。神が教える愛とは、上の聖句によると次のとおりです。


1.行いではない

どんなに良いことをしても、愛がなければ意味がありません。


2.見返りを期待しない

怒りやねたみは、見返りを期待するからおこります。


3.神への信頼

すべてをがまんし、信じ、期待し、耐え忍ぶ。それは神への信頼があるからこそできることです。 私たちはどうしたら神への信頼を増し加えることができるのでしょうか。その唯一の方法は、十字架の愛を知ることです。知識としてではなく体験を通して知ることです。自分の罪深さに気づき、あわれみを求め、ゆるされることを通して神の愛を知り、それが神への信頼となります。


ところが、罪に気づくことを妨げるものがあります。それはかたくなな心です。自分は悪くない、被害者だと悔い改めを拒む感情があるのです。それが神の前に悔い改めることから逃げ出させ、見えるところにすがらせるのです。しかし、罪を認めることなしに、神への信頼は生まれません。見えるものにしがみつく限り、決して平安は訪れません。神は私たちを罰するのではなく、ゆるし、罪の病を癒そうとしておられます。ですから安心して自分の罪を神の前に言い表し、神の愛を体験していきましょう。